2002年
JIA設立以前の初心
|
「志」を教えてくれたふたり(ハンセン病快復者)
|
2002年11月、僕が初めて広東省潮州市嶺後(リンホウ)村でワークキャンプを主催したとき、ふたりの村人が印象に強く残る。このふたりが大きなきっかけとなって僕は中国に渡り、JIAを設立し、現在に至るまでワークキャンプを行っている。
1人目の村人は、蘇振権だ。2002年の9月にリンホウ村でワークキャンプを開催するための下見調査から、同年11月の3週間のワークキャンプが始まる数日前まで、僕は村人を「かわいそうな社会の弱者」だと思っていた。その後、ワークキャンプ中にわかったことは、確かに彼らはある意味で「社会の弱者」ではあるが、その他多くの面ではそうではないということだ。蘇振権は特にその傾向が強く、困難を克服する彼の強さに僕は感動した。彼を尊敬するようになり、彼から困難に立ち向かう強さを学んでいる。もっと多くの人たちに、彼のことを、彼の人生を知らせたいと思った。しかし、当時その機会に恵まれたのは、キャンプに参加した日本人6人だけだった。中国の学生にも彼のことを知ってほしいと思った。
もう1人の村人は、蔡玩卿だ。彼女は目が見えず、手の指はほとんどない。歩くことが出来ず、毎日暗い部屋で、木の板を渡して作ったベットに座っている。キャンプ中、彼女のところへ行くたびに僕らと彼女の距離は縮まっていく。彼女は気高い、優しいおばあちゃんだった。ある日彼女は病気で寝込み、死にそうになっていた。でも、家族は誰も来ない。この時僕はハンセン病に対する差別に、尾てい骨が震えるような怒りを覚えた。その時僕は、中国の学生が研修に参加してリンホウ村に頻繁に来るようになれば、ここを人が行き来するのも自然なことになるかもしれない。村人の家族も村に来るようになるかもしれない。蔡玩卿も家に帰れるかもしれない。そう強く思った。
|
中国人キャンパー誕生
|
その後、2003年3月にもキャンプを開催し、2回のキャンプで合計6週間をリンホウ村で過ごし、僕とリンホウ村の村人の間にツナガリができた。村人から人生についてもっと学びたい。中国の学生にも村人のことを知ってほしい。そのふたつの想いを胸に、僕は2003年3月に大学を卒業後、4月からリンホウ村に住み込み、ワークキャンプの準備をしながら現地の大学生を募集し始めた。2003年8月、広東省潮州市リンホウ村と清遠市楊坑(ヤンカン)村(2001年に日本フレンズ国際ワークキャンプ関西委員会と韓国ピースキャンプがワークキャンプを開催した村、現新橋村)で、ついに初の中国人大学生キャンパーが誕生した。
|
2003年
中国人大学生がワークキャンプを開始
|
キャンプ地の増加
|
2003年8月の2回のワークキャンプ後、2003年10月の国慶節の休暇中、蔡韓(広東商学院、現JIA広州OG/OB会(Back Up Team、通称BUT)メンバー)がヤンカン村でワークキャンプを開催した。王志偉(広東商学院、現BUT)と馮浩殷(2004年9月~2005年5月までJIA委員会メンバー)がこのキャンプに参加した。ここから、ワークキャンプは次第に中国に根を張り始めた。
次第に、中国の学生が新たにワークキャンプを開催する村の開拓を始めていく。
2003年9月、梁棟彬(暨南大学、現広州BUTメンバー)と当時FIWC関東委員会メンバーの鈴木亮輔(旧姓吉田)が広東省呉川市の土光村でワークキャンプの下見調査を行い、その後湛江師範学院でワークキャンプを紹介するプレゼンテーションを行った。2003年12月には、蔡韓と僕が広西省桂林の平山快復村でワークキャンプの下見調査をし、その後広西医科大学で学生にワークキャンプを紹介した。
2004年2月、土光、平山、藤橋(早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンター西尾雄志と中山大学の共同開催)の3つの村が、ワークキャンプ開催地として加わった。同年5月、馮浩殷と僕は雲南農業大学の学生と共に、雲南省楚雄州の火山村でのワークキャンプの下見調査を行なった。
|
人材、資金、情報の不足
|
2004年5月までに、キャンプ地は急速に増加した。2001年1ヶ所しかなかったキャンプ地は、2004年8月には7ヶ所になった。この急激な増加により、新たな課題と問題が生まれた。ワークキャンプのコーディネーター、プロジェクト費用、情報共有の必要性だ。このことは、僕たちが中国で早急にワークキャンプのコーディネートセンターを設立し、この3つの問題解決する必要があることを意味した。
|
2004年8月
JIA設立
|
JIA設立準備委員会の設立
|
この時期、ワークキャンプのコーディネーターであった中国の学生たち(蔡韓、王志偉、馮浩殷)、韓国ピースキャンプの姜相敏と僕は上記の3つの問題について考え、2004年6月1日に「Childish委員会」を設立した(設立日が中国のこどもの日だったため、この名が付いた)。これが後に「ワークキャンプのコーディネートセンター」であるJIAになる。2004年7月、広東省潮州市の学生である蔡潔珊がこのJIA設立準備委員会に加わった。この委員会の会議は数日に1回不定期に開催され、場所はいつも広東商学院の向かいにある食堂だった。当時の僕らは本当に「Childish」で、熱意のみで活動を行っていた。
|
JIAの機能
|
当時メンバーと、JIAの構想を考えた。会議の結論は下記の通りだ。
· ワークキャンプのコーディネートセンターは、ワークキャンプを直接開催するのではなく、各地区の学生ボランティアが自主的にワークキャンプを開催することをサポートするために設立される。
· 各地区の学生ボランティアが継続的にキャンプを開催することを確実にするため、コーディネートセンターは「ワークキャンプ地区委員会」の設立に力を注ぎ、各地区の学生ボランティアが各地区にあるハンセン病快復村にて各地区の社会資源を動かしてワークキャンプを組織できる環境を整える。
· センターが提供するサポートには、以下が含まれる:ワークキャンプに関する情報の共有;キャンプを開催できる人材の育成;中国各地区や海外のキャンプ参加者同士、財団·
他のNPOなどとのネットワークの構築。
|
「JIA」という命名
|
ワークキャンプコーディネートセンターの名称についてはメンバーの議論を呼んだ。中国本土の団体として、僕は漢字一字で名前を付けることを提案した。「動」「想」「愛」「橋」「心」「和」…。最後に馮浩殷が提案した「家」という言葉に、僕たちはすぐ賛同した。その後英語名を考え始め、“HOME”、“FAMILY”などをあげたが、結局「家」の中国語の発音である“JIA”を選んだ。2004年7月12日、僕と蔡潔珊は仕事を終えたあと、飲みながら“JIA”の各母音に英語でどのような意味をつけられるかを考えた。その結果生まれた言葉が、“Joy in Action”だ。
|
JIA設立会議の招集
|
JIAは、各地区の学生ボランティアの共通認識に基づいて設立されるべきだ。そのために、「Childish委員会」とFIWC関東委員会は2004年8月、日本財団の助成の下、第一回ワークキャンプの国際ネットワーク構築会議(現在の会員代表総会)を開催した。会議には、広東、広西、雲南で夏季ワークキャンプに参加した7ヶ所のキャンプ地の学生ボランティア代表、韓国、日本のワークキャンプ団体からの代表、計95名が参加した。会議では、各地区の代表がキャンプ地の急速な増加に伴い発生した情報共有、人的資源、資金の不足についてグループディスカッションを行なった。その結果、ワークキャンプのコーディネートセンターを設立する必要性を参加者全員で確認し、JIAは正式に設立を宣言した。
|
2004年
JIA成立後の動き
|
「JIA委員会」
―意思決定機関兼執行機関
|
JIA設立後、2004年9月に「Childish委員会」は「JIA委員会」へと名称を変更し、JIAの意思決定とその執行を担当した。当時の委員会メンバーは、蔡韓、蔡潔珊、馮浩殷、王志偉、姜相敏と僕で、全員「Childish委員会」からのメンバーだった。その後、ワークキャンプのネットワーク構築会議に積極的に協力してくれた鈴木亮輔(FIWC関東委員会)、一定の社会的資源を持つ李攀燕(暨南大学)も委員会に加入した。
|
JIA委員会の人事
|
2004年9月から、JIA委員会は原則として隔週土曜日の午後2時から定例会議を行い、意思決定を行った。同時に、JIA委員会のメンバーは以下のように執行を担当した:
· 原田燎太郎:ジェネラル ディレクター
· 姜相敏:プロジェクト マネージャー
· 馮浩殷:プロジェクト
コーディネーター
· 王志偉:情報管理
· 李攀燕(ペニー):広報マネージャー(2004年11月から符林(ケルビン)が担当)
· 蔡韓:広報アシスタント
· 吉田亮輔:広報アシスタント(2004年11月から麦根華(マイケル)が担当)
· 蔡潔珊:会計
しかし、設立したばかりのJIA委員会は経験が不足し、運営は思うように回らなかった。実際の業務は広東、広西、雲南のワークキャンプの管理が主となった。
· 原田燎太郎:広州地区(2004年11年から麦根華(マイケル)が担当)
· 姜相敏:雲南地区
· 馮浩殷:広西地区(2005年5月、JIA委員会を脱退。王志偉と原田が代わりを努め、原田は桂林、王志偉は南寧を担当)
· 王志偉:湛江地区(2005年4月から謝韻が担当)
· 鈴木亮輔:潮汕地区(2004年11月から蔡潔珊が担当)
上記のJIA委員会のメンバーが各地区の情報を収集してJIA委員会に報告し、それに基づいてJIA委員会が意思決定をし、さらにJIA委員会のメンバーが各地区にフィードバックした。
|
JIA委員会の役割
―地区委員会との「連絡係」
|
当時の僕たちの理想像は、各地区が独立して各自でワークキャンプを開催することだった。JIAの委員会のメンバーは管理者ではなく、情報の橋渡し役であるべきだった。しかし実際のところは、各地区の経験に限りがあることから、情報の橋渡し役は同時に管理の役割も担っていた。また各地区の学生ボランティアと協力して、写真展やPR、講演会、ワークキャンプといったプロジェクトをも実施していった。
|
2004-2005年
JIAワークキャンプ地区委員会の成立
|
広州地区委員会、
雲南地区委員会、
湛江地区委員会の設立
|
JIA委員会は各地区の学生ボランティアに対し、「JIAワークキャンプ地区委員会」の成立を通じて自主的にワークキャンプを運営していくことを推奨した。地区委員会は普通、ひとつの地区にある複数の大学で構成されている。2004年9月26日、広東商学院と中山大学、暨南大学が構成する「JIAワークキャンプ広州地区委員会」が設立された。同年10月には雲南農業大学が構成する「JIAワークキャンプ雲南地区委員会」が設立された。2005年2月25日には、湛江師範大学と広東海洋大学が構成する「JIAワークキャンプ湛江地区委員会」が設立された。
当時、広州地区委員会はワークキャンプ開催の歴史が最も長く、経験も豊富だった。また、JIAは広州1ヶ所にしか事務局がなかったためた。そのためJIA委員会のメンバーは、広州地区委員会の中心メンバーから直接任命された。このような方法を取ることで、JIA委員会は広州地区委員会が今後更に発展し、各地区のモデルとなることに期待を寄せた(同時に懸念点として、広州地区委員会が他の地区委員会に対して中心的な役割を果たし、他の地区委員会が依存してしまわないかということがあった)。
|
2005-2006年
地区委員会の発展と新たな支援先
|
第一回コーディネータートレーニング開催
|
このように、まずは広州地区委員会にてコーディネーターをより多く育成するため、JIA委員会は2004年11月に第一回コーディネータートレーニングを開催した。このトレーニングに参加したメンバーは2005年2月の春季ワークキャンプにおいて特に目立った活躍を見せた。
|
笹川記念保健協力財団の支援
|
地区委員会が発展するにつれ、JIAにとって飛躍の契機が訪れた。発展を始めたJIAは2004年12月、雲南省昆明で開催されたILEP (International Leprosy Association)の会議に招待され、活動を紹介することができた。そこで笹川記念保健協力財団からの支援の可能性が生まれた。その後同財団よりの支援は確定し、JIAは雲南省昆明に2つ目の事務局を構え、姜相敏が雲南事務局の業務を担当することになった。
|
ワークキャンプのプロジェクトチーム制の採用
|
2つの事務局の努力により、地区委員会は更に発展を続けた。この頃から、各地区委員会はどのように自主的かつ効率的にワークキャンプを開催するかを考え始めた。「PT」(Project Team、プロジェクトチーム)というキャンプ準備方法の他、2005年3月に王志偉が提案した「ブレッド·
プラン」(※)を各地に推進したことにより、ワークキャンプのコーディネーターの負担が半減し、新たなコーディネーター育成にもつながった。JIA委員会のメンバーは次第に「管理者」から「情報の橋渡し役」という本来の役割へと回帰していった。
※「ブレッド· プラン」:当時のワークキャンプはコーディネーター1名によってキャンプの事前準備がすべて行われており、コーディネーターの負担が増大していた。そこで、コーディネーター1名と複数のメンバーからなる「プロジェクトチーム制」による事前準備が提案される。それをさらに発展させた考え方が「ブレッド(パン)·
プラン」で、プロジェクトチームに所属するメンバーは小麦粉の粒子のように個別に分散しているのではなく、新旧のメンバーがパンの生地のように練り合わされて団結し、発酵するように成長し、ワークキャンプというパンをしっかり焼き上げようという考え。
|
ロックフェラー兄弟財団の支援
|
地区委員会の発展に伴い、JIA事務局は組織広報活動及びより多くの団体との協力関係を築くことに精力を出せるようになった。当時Yale大学の大学院生として華南地区NGO研究をしていたAnthony J. SPIRESが、2005年6月にJIAが開催したチャリティーライブに参加した。そこから彼はJIAに興味を持ち、2006年の春季ワークキャンプに参加した。ワークキャンプ中彼は若者が自分の頭で考え、自分で行動していることに感銘を受け、この活動が社会発展に大きな意義を持つと確信し、ロックフェラー兄弟財団にJIAを紹介し、プログラムオフィサーであるShenyu BELSKYが2006年に桂林で開かれた第三回ワークキャンプの国際ネットワーク構築会議に参加した。各地区委員会が活発に自信をもって自らの活動の報告をする姿を見て、彼女は感動して目を赤くしていた。そして、2007年、ロックフェラー兄弟財団はJIAへの支援を開始する。
|
2006-2007年
JIA委員会と各地区間の隔たり
|
トップダウン方式
|
2005年以来各地区委員会はそれぞれ発展を始めたが、JIA委員会の仕事の仕方は基本的に変化があまりなかった。それが、JIA委員会と地区委員会との間に隔たりを生みだしていく。
2006年6月、JIA委員会は「JIAボランティアチームネットワーク」を構想した。各地区委員会にそれぞれ法律援助チーム、ヘルスケアチーム、聞き書きチーム、OG/OB会、プロジェクト発展チームを成立し、地区を越えてチーム間のネットワークを構築しようとした。チームにはそれぞれ弁護士、医者、学者などの専門家が顧問として付き、キャンプ地に関連する問題解決にあたるという計画だった。しかし、実際にはこれらのネットワークはほぼ機能せず、運営の大部分が麻痺した状態だった。各地区委員会のメンバーの多くがこの構想の意義を十分に理解出来ず、JIA委員会から各地区委員会への典型的なトップダウン方式の意思決定になってしまったことが、失敗の大きな原因であった。しかし、この構想を推し進めようとしたJIA委員会も、これに代わる方案を示すことができなかった。
|
「推測」の年度計画
|
各地区委員会のメンバーの自主性に相反するもうひとつの仕事の仕方が、JIA全体の年度計画の制定過程だ。JIAのスポンサーが増えるにつれ、JIA委員会は地区委員会の計画を含めたJIA全体の年度計画を事前に作成し、提出する必要が出てきた。しかし、各地区委員会のメンバーの流動性は大きく、各地区委員会に年度計画の提出を求めることは非常に困難だった。JIA委員会は、各地区委員会が確実な方法によって時間内に年度計画を作成させる手段を欠き、スポンサーが指定する計画書の提出期限を超えることも出来ず、結果として各地区委員会の年間活動計画を「推測」する方法で年度計画を作成し、スポンサーに提出するしかなかった。財団が計画を承認しても、一部の地区委員会ではその資源を有効利用する能力を欠き、大切な資源が逆に「負担」になるという事態に陥った。
|
広州委員会の「衰退」
|
さらにこの時期、広州地区委員会に衰退が見られ始められた。2005年8月の第二回ワークキャンプの国際ネットワーク構築会議において、葉遠洋(中山大学)、陳喆彤(暨南大学)、蘇韻慧(広東商学院)がJIA委員会の新たなメンバーとして任命され、卒業してOG/OB会に加わった謝韵(セブン)、麦根華(マイケル)、蔡韓に代わった。しかし、陳喆彤と陳明智はJIAの定例会に定期的に参加することができなかった。これは、JIA委員会がそのメンバーを広州地区委員会から直接任命する方法が立ち行かないことを意味した。葉遠洋も蘇韻慧もJIA委員会のためにできる限りの努力をしたが、彼らはさらに広州地区委員会ワークキャンプのコーディネーターの仕事も負担しなければならなかった。
つまり、広州地区委員会がJIA委員会によってワークキャンプのコーディネーターを「占用」される現象が、広州委員会の衰退につながったということだ。能力のあるコーディネーターがいないことにより、広州地区委員会の運営の効率は下がり、ワークキャンプを組織するにも困難が伴った。結果、ワークキャンプの質は次第に低下し始めた。次世代を引き継げる優秀なワークキャンプのコーディネーターが、質の低下したワークキャンプの中から生まれることは難しかった。
|
他地区委員会の発展
|
一方、広州以外の地区委員会では、地区委員会の代表がJIA委員会で意見を表明し、意思決定に参加することを求め始めた。ちょうどこのころ、広州にいるJIA委員会のメンバーにとって、遠く離れた各地区委員会との「情報の橋渡し役」を勤める業務負担が次第に大きくなっており、それまでの「ガイダンス、サポート及びアドバイス」といったJIA委員会の地区委員会への管理者的機能は次第に弱まっていった。このことは、逆に各地区委員会が発展するきっかけとなった。
|
2つの事務局のコミュニケーション問題
|
さらに、広州と雲南の2つの事務局間のコミュニケーションにも問題が生じていた。電車で25時間以上かかる移動距離とその移動費をまかなう資金不足も手伝い、2つの事務局間のコミュニケーションには深刻な溝が生まれていた。この状態はプロジェクト実施にも様々な不備を及ぼし、プロジェクトの効率やクオリティ面で大きな影響を与えた。JIAは2つ目の事務局(雲南)を設ける以前でさえ事務局の運営方法が確立されていなかった。そこへ事務局を増やしたことによって、状況はさらに混乱してしまった。事務局の混乱は、JIA全体の安定的な発展をさらに難しいものにした。
|
2007-2008年
JIA混乱期-暗黒の2年間
|
JIA委員会と
JIA管理委員会
|
2007年1月には、JIA広西事務局が設立された。設立の目的は、広西省の3地区(桂林、河地、南寧)のワークキャンプの発展のサポートと、立地条件を活かして広西、広東及び雲南の間の交流を促進することだった。事務局設立により、JIA委員会の組織も改編された。JIA委員会のメンバーは王志偉(広州事務局責任者)、原田燎太郎(広西事務局責任者)、姜相敏(雲南事務局責任者)となる。そしてそれとは別に、「JIA管理委員会」(JMC, JIA Management Committee)と呼ばれる会議が設置され、張香明(広州)、劉森林(湛江)、張柔(潮汕)、路敏(南寧)、徐少林(桂林)、曽庭梅(雲南)といった学生が地区委員会代表としてその会議に参加した。
この新体制の本来の意図は、JIA委員会(3つの事務局責任者)は依然として意思決定と執行を担当するものの、JMCにてJIA委員会は各地区委員会の最新情報を把握し、それをJIA委員会の意思決定に反映することだった。これにより、JIA委員会は経験の豊富な年長者として問題を検討して意思決定出来る上、広州地区委員会の人的資源を「占用」する必要がなくなり、各地区委員会もJIA委員会の意思決定に部分的に参加できる。
しかしこの過程において、JIA委員会、JMC、事務局の連携はどれも順調にいかなかった。JIA委員会は定期的に会議を開かず、会議記録も残っていなかった。JMCの多くのメンバーはJMCの機能を理解せず、会議はただ各地区委員会の状況をだらだらと報告するだけのものとなった。JIA委員会もまた、実行可能で安定した方法で地区委員会の代表を会議に参加させることができず、各地区委員会代表のニーズに合致した意思決定をする方法を見いだせなかった。各地区委員会の代表も地区の意見を代表しているとは言い難かった。事務局の業務もまた、順調とは言えなかった。雲南事務局は一年をかけて全力で中国国内でのNPO法人登録を行おうとしたが見通しは暗く、この作業のために地区委員会の発展のためのサポートが後回しにされていた。広州事務局も雲南事務局に協力していたが、プロジェクトに関するコミュニケーション不足に失望を感じていた。この状況を改善するために広州事務局は約2年という膨大な時間を費やしたが、効果はほとんど見られなかった。
各地区委員会のボランティアチームネットワークは、広州のOG/OB会とその後設立されたニュースレター編集チーム以外、ほぼ麻痺状態にあった。これに各地区委員会のキャンパーは疑問を抱き、このチームネットワークは自然消滅した。この構想の中止については正式な意思決定がなされていない。
|
盲目的な新キャンプ地の開拓
|
さらにこの時期、JIAは盲目的に新キャンプ地を開拓していた。2006年7月には湖南省吉首での下見を行い、10月にはキャンプを開催した。2007年5月には湖南省吉首と長沙で、2008年3月には海南で下見を行なった。キャンプ地開拓のスピートは非常に早く、2006年に26ヶ所だったキャンプ地は2007年に52ヶ所にまで増加した。2007年8月には、発展方向を明確にしないままに小学校でのワークキャンプを開始した。当時のJIAにはプロジェクトマネジメントに関する概念がまったくなかったといってよい。
この時期は、JIAにとって一つの大きな損失だった。
|
南寧地区委員会の設立
|
ただ、この損失の中で意外にも得たものは、各地区委員会の自主性だった。この時期、JIA事務局は各地区委員会のワークキャンプに協力することができなかったため、各地区は独自に活動を展開し、事務局はほとんど関与しなかった。このようなワークキャンプは質を保証することができないものの、各地区委員会は自らの考えに基づいて、自分たちの将来の発展方針を開拓していった。これにより、各地区はさらに独立し、自主性を持っていった。南寧地区委員会は2007年5月19日に設立されたが、この時期には多くの地区委員会が自ら制定した年度計画に基づいて活動を実行することができるようになっていた。
しかし当時のJIA委員会は地区を十分に意思決定に参加させられなかっただけでなく、ふたつのJIA事務局の年度計画作成すら難しかったため、地区委員会の失望をさらに深めることになった。
このような状況の中、広西事務局(南寧)は閉鎖されることになり、南寧地区委員会に大きな打撃を与えた。2007年5月末、失意の中僕は広州事務局に戻っていった。
|
2008年下半期
JIA改革
|
|
2008年、年初の雪害で極寒の冬の日、JIAの組織もまた凍え死にそうな状態だった。JIAの組織の問題を緊急に解決しなければならないことは目に見えていた。しかし当時広州事務局の責任者であった僕だけで決断を下すことは出来なかったため、雲南事務局と相談しなければならなかった。しかし、雲南事務局の意見は広州と合わず、雲南との交渉を続けるしかないものの、そこに解決の兆し全くは見えなかった。
2008年8月のワークキャンプの国際ネットワーク構築会議は、組織の混乱を反映したような荒れ様だった。粗末な建物の会場を大型台風が直撃したため、100名以上の参加者全員が別の場所に避難することになった。
|
JIA組織改革チームの発起
|
このまま問題が改善されなければJIAは崩壊する。僕は2008年9月、広州事務局とその管理下にある広東、広西、湖南、湖北、海南(当時の「JIA東部ネットワーク」)の組織改革を断行することを決意した。独断で、雲南事務局とは運営を分ける。2008年10月18日、僕はJIA改革チームを組織し、広州事務局の全ての事務局職員と各地区委員会の代表がこれに加わわる。
|
組織改革方案=新会則方案
|
2回にわたりメンバーが集まっての会議を行い、その前後にはメールなどでの議論を通し、僕たちは現在のJIAの問題がどこにあるのか気がついた。JIAには明確な会則というものがなかったのだ。会則において、JIAとは何か、JIAの会員は誰か、意思決定者、執行者は誰か、責任の所在はどこにあるのかなどを定めれば、大部分の問題を改善することができる。改革チームは組織改革案として新たな会則を作成し、2008年12月27日に第一回JIA理事会が召集され、会則が承認された。また、各地区委員会の学生ボランティアはJIAの会員となり、地区委員会と事務局を併せてJIAの全体組織であると定めた。JIAは2009年からは雲南事務局と運営を切り離し、「JIAワークキャンプボランティア協会」として再スタートする。
|
2009年
共同で作成した初の計画書
|
「推測」によらない計画の作成
|
JIAの組織改革前、支援先が次第に増え、JIA独自の年度計画が存在するものの、この計画はやはりJIA委員会が地区委員会の考えを「推測」して作成したもので、地区委員会の実際のニーズに即さないものもあった。JIAの組織改革後、地区委員会とJIA事務局は協力関係となり、事務局は理事会の意思決定を執行し、事務局の経験をもって地区の持続可能な発展をサポートする立場となった。そのためには、各地区委員会の実情に適合した年度計画を作成することが非常に重要な課題であった。2008年12月初め、事務局長である原田はプロジェクト部に年度計画策定用の調査アンケートを作成する権限を与えた。これらは主に、各地区委員会の次年度のプロジェクトと地区発展のためのニーズを調査するものだった。地区委員会の代表は地区委員会内の経験のあるメンバーと議論してアンケートに回答し、事務局にフィードバックする。事務局は受け取った各地区委員会のニーズを照合し、これまでプロジェクトを行ってきた経験を元に内容を調整してまとめ、事務局長よりJIA理事会に提出する。こうして2008年12月、JIA理事会において、現状を反映した計画書が承認された。これはJIA始まって以来のことだった。
|
課題を残すJIA年度計画
|
しかし、この時期の計画書はまだ素朴で初歩的な雛形だった。基本的なプロジェクト以外には、その他の情報が含まれておらず、JIAを構成する重要な部分のひとつであるJIA事務局の計画さえ含まれていなかった。また、当時地区委員会代表としてJIAの理事を担当し初めたばかりの学生理事は、JIAの混乱期にワークキャンプを始めた世代で、事務局からのサポートを得た経験がほとんどなかった。そのため、彼らなりに地区委員会の状態を把握し、自主的に計画書に反映しようと努めたものの、いざその計画を執行するとなるとうまくいかないことが多かった。一方、ワークキャンプの歴史が比較的長い広州、南寧といった地区委員会では、JIA理事会を通過した年度計画を整理し、自分の地区委員会と関係のある内容を取り出して地区委員会の執行年度計画とすることにより、後任の地区委員会代表らがそれを執行しやすいようにしたので、順調に執行することができた。
しかし、これは先進的取り組みであり、当時まだ他の地区委員会では一般的な方法ではなかった。2009年度JIA年度計画執行の混乱からも見られるように、一部の地区委員会では、年度報告の提出期限の2010年2月になっても一部のプロジェクトが行われておらず、急遽実施するなど、執行漏れや財務報告の延滞など、地区委員会の自発性はまだ完全に発揮されていなかった。また、ある地区委員会ではパソコンの故障によってアンケート作成を忘れ、アンケート回収日当日にそのことに気づいた地区委員会代表個人が、地区委員会のメンバーと話し合わないままに自身の想像でアンケートを記入するという事態も起きた。このような出来事は当時まだ珍しくはなかった。地区委員会代表たちにはこういった状況の重大性に対する認識はあっても、地区委員会内の他のメンバーとの議論や協力を導き出すまでには至っていなかった。
いずれにせよ、2009年度の年度計画策定方法は、地区の自主性を十分に体現化できるものだった。そのため2010年度計画も同様に策定し、新たな試みとして情報共有や資金集めといったプロジェクト以外の情報も盛り込まれ、2011年の年度計画には事務局の計画や今後の方向性などが加えられた。
|
2009年8月
JIA第一回会員代表総会
|
新たな規約に則った総会の開催
|
上にも挙げたように、2004年JIAは第一回ワークキャンプの国際ネットワーク構築会議を開催し、その後毎年8月下旬には同様の会議が開催されてきた。しかし、2008年JIAの改革後は、新たな会則に則り、各地区委員会の会員に対してJIA理事会の業務状況を報告することが必要になった。同時に、各地区委員会の会員代表もまた、ワークキャンプの発展方向に関する問題や経験などを他の地区委員会の会員と意見交換できる場を求めていた。そこで、ネットワーク会議は正式名称を「JIA会員代表総会」に改め、理事会の意思決定報告、事務局の執行状況報告、各地区委員会報告を行う環境を整えた。第一回会員代表総会は2009年8月23日~24日、広西省南寧市の蕾雨ホテルで開催された。
|
地区委員会が提案する議題でのディスカッション
|
地区委員会の自主性を活発にするため、2004年から現在に至るまで、地区委員会報告は全て各地区の代表によって実施されてきた。しかし、当時のグループディスカッションについては「JIAボランティアチーム ネットワーク構想」に代表されるようにトップダウン方式で、JIA委員会が議題を決め、各地区委員会のメンバーはそれに参加するのみだった。各地区のメンバーがこのディスカッションに割り当てられても議論が盛り上がらず、熱意もそれほど高まらなかった。2008年、地区の自主性が強化されたことを受けて、同年のネットワーク会議ではこのようなトップダウン方式のディスカッションの場は取り消され、地区委員会が自ら議題を提案する方式が試された。だが、当時広州と雲南省の2ヶ所あった事務局間でコミュニケーションに問題があったことがネットワーク会議に大きな影響を与えた。議題の決定、ディスカッションの方式は非常に乱雑で、ディスカッションは問題解決のための助けにならないばかりか、議事録も資料として残っていなかった。2009年の大会では、各地区の議題提案、ディスカッションの進め方についての方針が新たに定められたことで、地区の自主性はさらに増した。この方法は現在に至るまで採用されている。初めて2年ほどが経つと、ディスカッションで議論された議題はワークキャンプ内で明らかに効果が見られるようになった。2009年に地区委員会間の協力方法が議論されてからは、地区委員会を越えたいくつもの交流会プロジェクトが実現した。
|
JIAの蘇生
|
2009年大会後のパーティーで、広州のOG/OB会(Back Up Team、通称BUT)の麦根華(マイケル)は、「JIAが今日まで歩んでこれたことを、僕はとても、とても、とても、嬉しく思う」と熱く語った。寒い冬を乗り越え、JIAはやっと蘇生を始めた。
しかし、この回復はまだ始まったばかりだった。会員代表総会という形式は出来上がったものの、会員自身にJIAの主体であるという認識が浸透していなかった。会員大会の採決が終了した後、桂林地区委員会のメンバーである呉輝麗は言った。「投票の機会があるなんて知らなかった、報告書もまだ細かく見終わっていない。」幸いなことに、彼女はその後桂林地区委員会のワークキャンプ発展のために力を注ぎ、2010‐11年の桂林地区委員会代表となった。
|
2009年12月
新地区委員会の成立
|
|
2006年から2008年にかけて、JIAは「拡大路線」を急ぎすぎたため、多大な負の影響を受けた。歴史の最も長い潮汕地区はメンバーの意識低下ために他の地区委員会とのコミュニケーション不足が深刻化し、2008年のJIA第一回理事会には参加せず、広州地区委員会内の1つの団体としてJIAの組織に組み込まれた。一方、ワークキャンプが始まったばかりの海南省海口、湖南省吉首、湖北省宣昌などが新たな地区として加入した。2009年からのJIA会員制推進により、湖南省長沙と広東省潮汕のボランティアは自身を発展し始めた、自主性を持つ団体と認識し、地区委員会の設立を認定するようにJIA理事会に申請した。
|
長沙地区委員会の成立
|
しかし当時のJIA理事会はまだ幼く、事務局長との議論のみによってJIAに関連する事項を決定することができなかった。JIAの事務局長であった原田は、地区委員会の設立を承認するための詳細な規定を定める以前に、この2つの地区委員会の設立申請を受け入れてしまい、2009年12月のJIA第六回理事会において正式な決議を行なった。その結果、潮汕の申請は否決され、長沙だけが新たな地区委員会として承認されることになった。当時の理事会の理事(各地区委員会の代表)は潮汕と長沙についての理解が浅かった。たった2ページの地区紹介と地区計画からなる申請書、潮汕と長沙の代表の口頭の説明をもって、理事会がJIA全体を考慮して承認の是非を決めることは非常に難しかった。また、事務局の当時の人材状況の中で長沙と潮汕を承認することは、今後のワークキャンプの健康的な発展のために非常に無責任な態度であるだけでなく、メンバーの積極性を阻害する可能性があり、地区委員会の発展を盲目に引導することにもなりかねた。
|
JIA理事会の経験蓄積
|
このように、様々な議題について会議で議論、模索していく中で、理事会の業務方法と経験は次第に蓄積されていった。地区委員会の設立申請といったこれまで未完成だったフローが次第に明確になり、JIA理事会は、事務局の執行業務の監督やその他の職責を学んでいき、JIAの発展をリードするようになってきている。
2009年から現在に至るまで、事務局の限られた人的資源の状況を配慮し、JIAは9つの地区委員会による組織の枠組みを保持している。
|
2010年
地区団体及びOG/OB会(Back up Team、通称BUT)の発展
|
|
地区委員会の数がある程度安定してくると、それに相応して地区委員会内に所属する団体も発展していった。特に目立ったのは広州地区で、団体数は増加し、各団体ごとに連絡担当者を設け、安定して情報伝達ができるようになっていった。
また、2008年-2010年の間にJIA組織改革に携わった地区委員会のメンバーが卒業していくにつれ、地区委員会の経験を独自に継承していく必要性が認識され、OG/OBが様々な形式で第一線のメンバーと密接に連絡を取り合い、地区委員会をサポートする方法が模索され始めた。2010年以降、広州、南寧、桂林地区委員会にはOG/OB会(Back up Team、通称BUT)が設立されていく。
JIAの会員制が浸透するにつれ、地区委員会のメンバーの間にかつて希薄だったJIAへの帰属意識が高まっていく。組織改革の際に構想した、会員制による組織体制はうまく機能し始める。
|
2010年
地区委員会内部組織の形成
|
地区委員会の組織化
|
地区委員会内に所属する団体の増加により、ワークキャンプ開催数だけでなく、交流会やプロモーション活動といった地区の日常的な活動も増加し始めたため、さらに多くのメンバーが地区委員会の運営に加わる必要が生まれ始めた。しかし、学生ボランティアの時間は有限であり、また全ての人が同様の責任を負えるわけでもなかった。各地区委員会がよりよく発展するために様々な試行錯誤が行われた結果、地区委員会内で職能ごとに分業がされるようになった。これにより、地区委員会の資源分配が比較的合理的になるだけでなく、チームとして協力することよって地区委員会代表1人の能力に地区委員会の運営が左右されるリスクが減少した。2010年8月の会員代表総会での地区委員会の現状報告の場で、各地区委員会はそれぞれどのように組織内分業を行っているかを紹介した。
現在、OG/OB会(BUT)を除く8つの学生主体の地区委員会に設置された各部門は、事務局の各部門の分業を真似たものになっている。主に含まれるものは、プロジェクト、情報管理(地区委員会により名称は異なる)、財務の3つの機能である。これは、各地区委員会が発展していくためにまずは優先的にこれらの機能の分業を明確にする必要があることを示している。これまで事務局はプロジェクト部の業務に膨大な時間をさき、各地区委員会のプロジェクト部門とワークキャンプコーディネーターの状況を把握していたが、事務局財務部と行政部(主に情報管理担当)にも地区委員会との一定のつながりを持たせ、各地区委員会に作られた対応する部門とともに発展していった。
|
ニュースレター通信員チーム
|
情報共有を担当する事務局行政部の仕事のひとつは、JIAのニュースレターの編集だ。2009年以前、ニュースレターは主にワークキャンプ参加者の感想をまとめたものでしかなく、読み応えがなかった。地区委員会同士がこのニュースレターを利用して情報交換を行うこともできなかった。2009年10月、事務局行政部はJIA組織改革後の第一回通信員トレーニングを行った。各地区からそれぞれ1名の通信員がこのトレーニングに参加し、基本的な原稿の書き方などの技術を学んだ後、ニュースレターに関する様々な問題をどのように改善するかを議論し、レイアウトも変更した。その後、各地区委員会の通信員によって毎回のニュースレターの主題が決定され、関連する記事を執筆している。現在ではJIAニュースレター編集チームが安定し、地区委員会と深くと関わり始めたことで、その存在意義はさらに高まっている。
|
JIA財務チーム
|
2011年4月には、事務局財務部も地区委員会財務チームに向けたトレーニングを開催、各地区委員会から1-2名のメンバーがこの研修に参加した。こうして、JIA事務局はJIA全体の組織の中でボランティアである会員の管理者ではなく、会員をサポートするという役割をさらに確立していく。
|
2008-2011年
事務局職員変動がもたらした影響
|
|
JIAが少しずつ発展していく過程において、組織内での事務局の位置づけと、事務局で働く事務局職員の安定性は非常に重要だ。JIAの組織はボランティアの自主性を基礎としているため、このことに対する深い理解がなければ、職員として仕事をすることは難しい。熱意、年齢、ワークキャンプの経験などの条件を考慮するため、事務局職員の募集は常に慎重さが必要だった。また、給料が比較的低いこと、仕事量が多いこと、安定的でないことなど、短期間では解決しきれない問題が大量に存在した。
2008年の組織改革のころ、広州事務局にはフルタイムの職員が2名、パートタイムが1名だった。原田燎太郎(資源調達部)と王志偉(プロジェクト部)がフルタイムで、陳鵬(財務部)がパートタイムである。その後、事務局職員には一部の変動があった。
· 2008年8月、陳躍(行政部)が就任
· 2008年10月、顔循芳(プロジェクト部)が就任
· 2009年4月、王志偉(プロジェクト部)が退職、2009年10月に崔丹維(プロジェクト部)が就任
· 2009年11月、陳鵬(財務部)が退職、同年王達(財務部)が就任
· 2010年4月、邱国献(プロジェクト部)が就任
· 2010年7月、崔丹維(プロジェクト部)が退職、10月林胤岳(プロジェクト部)が就任
· 2011年7月、陳躍(行政部)が退職、張一冰がインターンとして業務を引き継ぎ
· その他、2010年よりパートタイム職員となった孫明君(資源調達部)が、2011年に業務を雷龍傑(資源調達部、パートタイム)に引き継ぎ
多くの人員変更の中で、事務局は多くの貴重な経験を失った。これはJIAの安定性に非常に大きな影響をもたらした。地区委員会へのサポート業務に遅れをきたし、地区委員会のニーズにすぐ対応することができなかった。
|
2009年~
ボランティアセンターへの移行
|
事務局移転
|
2009年3月、広州市海珠区にあった事務局の家賃が値上げしたため、JIAは事務局を移転することになった。移転先は、広州市番禺区の大学城である。大学城を新たな事務局として選んだ理由のひとつは、地理的に多くの広州地区委員会のメンバー(学生ボランティア)がいる場所に近づけるため、また、以前よりも広い事務局の空間を、地区委員会のメンバーの活動に役立てることが出来るためである。
|
プロジェクト部ワークステーション
|
また、広西省の資源が増えてきたことと、広西に駐在する事務局プロジェクト部職員が必要である状況を考慮し、2010年8月、事務局プロジェクト部南寧ワークステーションが設置された。ワークステーションは活動場所と居住空間の両方を兼ね備え、地区委員会のメンバーが読まなくなった本を集めて貸出したり、映画鑑賞会などの小型の活動を通じて、メンバーがワークステーションを訪れる機会を増やし、学びの場を整えた。また、JIAのボランティアと他の団体に所属するメンバーが交流する機会も提供できるような試みを行っている。
広州事務局にしても、南寧ワークステーションにしても、ボランティアセンターとして活動を展開するのは、地区委員会のメンバー(学生ボランティア)が事務局の仕事を理解し、JIAに対して更に強い帰属意識を持つことを期待するためだ。最終的には、ボランティア自らがボランティアセンターとしての事務局(とワークステーション)を管理し、各地区委員会の発展のために役立たせてほしいと考えている。この方針を推進するために、現在も模索が続けられている。
多くの地区委員会のメンバーがボランティアセンターのモデルを高く評価しており、地区内でも同様のモデルを行いたいと希望している。しかし、2007年に広西事務局を閉鎖した経験を踏まえると、センターのモデルの確立とその管理を行う人材がいて初めて、新たなボランティアセンターの設立を考慮できると考えている。盲目的に勢田ーを設置することは、地区委員会のメンバーに対して非常に大きな打撃と損害を与えかねない。しかし、すでにその試みを独自に始めている地区もある。長沙地区委員会では、2011年にキャンパー同士が資金を出し合って部屋を借り“Rainbowの家”と名づけ、物資保管や交流のために活用している。このような試みは小規模で気軽に試せるだけでなく、地区委員会のメンバー同士の関係を促進することができるため、非常に役に立っていると言える。
|