他人にこの活動のことを問われた時、私はいつもなんと答えればいいのかわからなくて困ってしまう。ハンセン病の説明をして、快復者に会いに行くのだと答えても、正直なかなか理解してもらえないのだ。だが、ボランティア活動ですと答えると、みんな納得する。
与える 与えられるの関係性がはっきりしているほうが、わかりやすいからだろう。
泗安村は、大きなワークニーズがあるわけではないし、食事も衣服も一見満ち足りている。
そのためキャンパーたちは、村人に会いに行くことを主な目的としてキャンプに参加する。
私もキャンプに参加する前は、村人に会ってどうするの?私たちの自己満足じゃないの?なんて考えていた。でも実際に泗安村に行って、村人に会いに行く、という言葉の意味を理解することができた。村人と私たちは、与える?与えられるの関係ではなく、お互いが幸福を与え合う関係なのだと思う。
私は、村人の笑顔を見ると、幸福で満ち足りた気持ちになる。村人と一緒にご飯を食べたり、名前を呼んでもらえた時は、あぁ今日まで生きてて良かったな、なんてことを考える。私は村人に出会う前、自堕落で人見知りでとにかく自分が嫌いだったけれど、泗安村で村人と一緒に笑っている自分は、ちょっとだけ好きになれる。
村人は、私の顔を見ると、表情がパッと明るくなって、自分の部屋に招き入れてくれる。私は中国語を話せるわけでもないし、無力な人間であることを承知で、心から歓迎してくれるのだ。どうして村人は、こんなにも快く私たちを迎え入れてくれるのか?キャンプに参加する度に、村人を好きになっていくのに、そんな村人のことを何も知らない自分が情けなくなる。あなたのことをたくさん知りたいんだ、その言葉の真意のまま伝えられたらどれだけいいだろう。もし中国語を話すことが出来たら、少しは村人のことを知ることが出来るのだろうか。言葉が話せても、心までは知ることが出来ないかもしれない。それでも私は村人のことが知りたい。何を想い、何を諦め、そして今は何を考えて生きているのか…。
今回は私にとって3回目のキャンプになる。村人のことを知るためには、まずは自分の気持ちをたくさん伝えたいと思い、村人に手紙を書いて渡した。村人はとても喜んで、私が泗安村を去る日、返事の手紙をくれた。お互いの幸せが膨らんでいくようで、嬉しかった。この先、私は何回村人に会うことが出来るのだろう。限られた時間の中で、私はあとどれだけたくさん自分の気持ちを伝え、どれだけ村人のことを知ることが出来るだろうか。
正直今の私は、これからも当たり前のように泗安村に帰ることが出来るような気がしているけれど、きっとそう遠くない未来、当たり前じゃなくなる日が来る。だからこそ、村人と一緒にいられる時間を本当に大切にしなければならない。言葉が話せない、何も出来ないなどといって、村人と関わることを躊躇っている暇はないと思っている。
私は日本で生活している時でも、泗安村のことを忘れることが出来ない。もっともっと成長した自分で村人に会いに行きたい、そう思うからこそ毎日楽しく生きることができる。泗安村の村人が私を変えてくれたのだ。村人にたくさんありがとうを言いたい。あなたたちのおかげで、私は救われたのだとちゃんと伝えたい。就職活動も含め、これからどんどん忙しくなっていくけれど、出来るだけ多く泗安村に帰れたらいいなと思う。大学を卒業して、仕事をするようになって、もっともっと大人になっても、いつまでも泗安村は私の故郷だ。