ピンシャン村にて
2005年5月、中国桂林地方独特の急な傾斜の山々に囲まれた、人里はなれた農村に、ある男性の姿があった。小牧義美、75歳。
小牧の滞在する、一見のどかに見えるその村は、ありふれた単なる中国の一農村ではない。過去にある病を病んだ人々が暮らす、半隔離状態の村である。村の人々がかつて病んだ病とは、ハンセン病。これまで過酷な差別?偏見にさらされた病である。村に暮らす人々はもうすでにハンセン病は完治しているが、社会的な差別?偏見、そして高齢化、さらには後遺症による障害など複合的な理由から、社会復帰を果たすことができなかった。そして人里はなれた村の中で、今もひっそり暮らす。
小牧はこの中国のハンセン病隔離村-ピンシャン村で、中国の地元の学生とともに、ハンセン病回復者である村人のかかえる傷の簡単な手当てを行なっていた。
「こういう傷っていうもんは、根気はいるが、忍耐強く手当てをすれば治るんだ。それをこの村の人たちにもわかってもらいたいんだ」
小牧はこの村で、みずからも体験したハンセン病に伴う傷に対する基本的な対処法を、村人、そして中国の学生に熱心に伝える。
小牧義美 生い立ち、発病、療養所暮らし
小牧義美。1930年9月27日、兵庫県に生まれる。6歳のころ、父の実家である宮崎に移住。その2年後に父は他界。母は、幼い子供4人を抱え29歳で未亡人となる。ミッドウェー海戦の翌年、13歳になった小牧は宮大工の弟子となり、16歳まで働く。
「どうもその頃からだなぁ。体に異変があったのは」
体の異変に気づいた小牧は、病院を転々とし、最終的に皮膚科にて病名を告げられる。ハンセン病だった。1947年2月、小牧17歳のときである。
「その翌月の3月に星塚(国立ハンセン病療養所星塚敬愛園)に収容された。17歳と6ヶ月。宮大工をやっとったから、患者作業で園の修理もした。そうだなぁ、その頃は全部で1000人くらい患者がおったかな。12畳半に5人から8人くらいで生活だ」
ハンセン病を発病し、療養所に入園するまでの正確な年月を語りながら小牧は続ける。
「いやあ、あん時はこれといった食べ物もないし、モノもないし、そらあ、大変だったぁ。米軍払い下げの救援物資の缶ヅメだとか、ララ物資とかいうたかな、衣類とかいろいろ、あれでたいそう助かったあ」
戦中戦後という日本が極度に貧しかった時代のハンセン病療養所生活を小牧は体験する。その貧しかった療養所生活も、日本経済の高度成長に伴い、徐々に改善されていく。58年にも及ぶ療養所生活の中で小牧は、治療や患者作業のかたわら、陶芸、ゲートボール、パチンコなど、多彩な趣味の世界に没頭した。
「まあ、いろいろやったけどね、まああれはもう、全部アワみたいなもんだわ」
小牧は療養所暮らしをそう振り返る。
ハンセン病
そもそも小牧やピンシャン村の村人がわずらったハンセン病とは、いかなる病であったか? そしてその病は社会の中でどう扱われてきたのか?
ハンセン病とは、細菌による感染症のひとつである。ハンセン病を引き起こす「らい菌」は、人間の体内に入ると末梢神経で増殖する。その結果治療が遅れると、手足の運動マヒや知覚マヒ、温度覚や感覚のマヒを引きおこす。この知覚マヒのため、ヤケドや外傷、またはそれによる骨髄炎などにより、手足が短くなったり、鼻の変形などを引きおこすこともある。しかしハンセン病の発症力はきわめて弱いとされる。日本のハンセン病療養所に暮らす人は過去にハンセン病を病んだが、現在は治癒しているため、われわれがハンセン病療養所を訪れたとしても、ハンセン病に感染し、発病する可能性はない。
またハンセン病にかかった人は、すべて手足や顔に外傷が出るようなイメージがあるがこれは誤解である。現在は、世界保健機構(WHO)が推奨する多剤併用療法(MDT)により、ハンセン病は早期に治療すれば後遺症をまったく残すことなく完治する。
ハンセン病-医学の問題、法律の問題、国家政策の問題、社会の問題
ハンセン病をという「病」を説明するとするなら、右記のような説明になるが、ハンセン病の場合、それは医学上の単なる疾病にとどまらず、きわめて多岐にわたる意味を有している。それは日本の場合、「らい予防法」という法律の問題であり、絶対隔離政策という国家政策の問題であり、そして差別?偏見という社会の問題である。
これら多岐にわたるハンセン病問題を歴史を追って概観してみると何が見えてくるか。
まず、医学問題としてのハンセン病問題は、1942年、特効薬プロミンが開発され、ハンセン病が可治の病となったことに、その区切りを見ることができる。患者の終生絶対隔離政策の根拠となった「らい予防法」という法律の問題としては、1996年に同法が廃止されたことに区切りを見ることができるだろう。また、絶対隔離政策という国家政策の問題に関しては、2001年、国の政策の誤りを認めた熊本地裁判決(「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟判決)をその区切りとしてみなすことができる。
では最後に、ハンセン病に対する差別と偏見の問題に関してはどうか。これに関しては2003年12月黒川温泉におけるハンセン病元患者宿泊拒否事件と、それに付随して起きたハンセン病療養所菊池恵楓園への批判文書の殺到に如実にみられるように、いまだ区切りが見出せない状況にある。
そもそもハンセン病に対する差別と偏見とは何か。そもそも「ハンセン病元患者」に対して、過去に病んだ一個の病名をもってその人を呼称し続けること、これこそがハンセン病に対して、われわれの社会がいかに強烈な社会的烙印-スティグマを押してきたかを示すなにより強烈な証拠であろう。われわれは過去におたふくを病み、今は治癒した人をさして、けっして「おたふく元患者」とはよばない。骨折元患者とも呼ばなければ、虫歯元患者とも呼ばない。元患者とはハンセン病にのみ使われるきわめて奇異な言葉である。
日本では特効薬が開発され、医学的根拠を失った後もハンセン病元患者を取り締まってきた法律である「らい予防法」が廃止され、さらには、国のハンセン病に対する絶対隔離政策の誤りが裁判で認められ、ハンセン病とはもはや終局を迎えた病であるとの見方が根強い。しかし、その今現在、ハンセン病療養所に収容される前の、自分のふるさとに帰ることのできた人、何らかの形で社会復帰を遂げることができた人、そういう人々はきわめて少数にとどまる。その原因は、ハンセン病療養所に暮らす人々の高齢化にも求められようが(2006年3月1日現在、全国のハンセン病療養所全入所者3,110名の平均年齢は78.22歳)、社会的な理解がいまだに得にくいという要因も少なからず存在する。
そのような現状の中、75歳を迎えた初老の男性が成し遂げた、きわめて稀な社会復帰を、ここにたどっていくことにする。
桂林へのあこがれ
「俺は目が悪いだろ、だからでっかいテレビを買ったんだ。大型の。そしたらなんだったかなぁ、何かの番組で桂林の特集をしとったんだぁ。きれいだなぁ、行ってみたいなぁて思った。その後も同じ番組の特集でグランドキャニオンとかいろいろやっとったけど、桂林が一番、きれいやったぁ。そしたらあれだ、財団からのお誘いがきて、そんで飛び乗った」
2003年3月、日本財団が、日本のハンセン病療養所の人たちに向けて、中国へのツアーを呼びかけた。そのツアーでは中国のハンセン病村を訪れ、友好を深めるというものだった。そのツアーでは、中国のハンセン病回復者とともに行く桂林観光もセットになっていた。小牧は後者の観光旅行に釣られ、これに申し込んだ。生まれて初めての海外旅行、初の訪中だった。
この訪中後、小牧からいろいろ話を聞くこと機会があったが、小牧から桂林での出来事、その風景の美しさ、桂林の思い出などを聞くことはほぼ皆無であった。桂林行きたさで申し込んだそのツアーで、小牧は桂林とはまったく別のものに、今後の人生を変えるほどの衝撃を受けることになる。
「ある村に行ったんだ。70人ぐらい住んどったかなぁ。『なんじゃあ、こりゃあ!』そう思った。俺もこんなところで暮らしてたなぁと思いだして、『うわああーー』と思って帰ったわ」
小牧のいう村とは中国のハンセン病村である。中国には625箇所のハンセン病隔離村があるといわれる。その多くは、逃走防止のため人里はなれた交通の便がきわめて悪いところに立地する。周辺住民さえその存在を知らないことが多いくらい、広大な中国の片隅で、ハンセン病を過去に病んだ人たちは今もひっそりと暮らしている。
そのひとつのハンセン病村を小牧は訪問した。そこで小牧が見た世界は、自分が体験した療養所の生活の中でもっともつらかった時期、戦中戦後の日本の療養所の世界に重なって見えた。
おれも何かしたいと思った…
帰国後小牧は、日本の財団を通じ、私費500万円を中国のハンセン病回復者のために寄付することを決めた。その寄付金は中国雲南省にあるハンセン病村と町とをつなぐ道路の建設費用や、ハンセン病村内にある小学校の建設費用、そして、ハンセン病患者?元患者子弟の奨学金にあてられた。
「だけど、カネだけじゃ、つまらん。俺にもなんかできることはないか。そう考えとったんだ」
「何かせなあかん、何かせなあかん」小牧は常に、そう思って生きてきたという。その起源は、かつての療養所生活にさかのぼる。
「入所当時、オフクロに手紙書こうと思ったときな、住所は書けるんだが、文章が書けん。自分が字が書けんことに気づいた。そして療養所の同じ部屋の人に頼んだんだ。そしたら、『お前、字ぃも書けんのかぁ!』ってこういうんだ。びっくりされて、バカにされてなぁ。そしたらその夜、そういうた人がわしんところまで、辞書もって来てくれた。これで勉強しろ、って。あれは悔しかったけど、俺の人生にとってひとつの転機だったなぁ。それ以来、なんかせなあかん、なんかせなあかん、そう思うようになった」
小牧に字を教えたその療養所の人物は、その後結核を患った。病床で喀血する血液を小牧はバケツで受け止め、医者を呼んだ。喀血からしばらくして、その仲間はこの世を去った。「なんだあ、お前、医者のくせに、何で、治せんのだ! 何で治せんのだ!!」療養所の医者に飛びかかる小牧を、周りの仲間たちはあわてて止めた。
「なんかせなあかん、なんかせなあかん。あいつにバカにされて字を覚えてから、ずっと思っとった。だからその後も、勉強した。いろんなこと、勉強した。プロミンができて一度は喜んだ。これで社会復帰できるぞー!って。でも結局できんかった。自暴自棄になった時期もあったぁ」
なんかせなあかん、その思いを聞いた財団の職員は、小牧にある人物を紹介した。28歳の日本の若者であった。
もうひとつの必然-原田僚太郎の進路選択
「なんか、へんなやつだなぁー。そう思っとったわ。ぬーっとでかいだろ、頭も変なアタマしとったなぁ」
小牧は原田の第一印象をそう語る。
原田僚太郎。28歳。2003年4月、早稲田大学政治経済学部卒業と同時に、中国広東省東部にあるハンセン病村に住み着き始める。
「おれ、むかしイジメられてて、それで差別とか偏見とか、考えるようになったのかな」
原田はハンセン病とのかかわりをそう振り返る。
原田が始めてハンセン病村を訪れたのは、大学4年の頃。就職活動のかたわら、中国ハンセン病村に共同台所を建設するワークキャンプに参加した。
ワークキャンプとは、第一次世界大戦後、キリスト教フレンズ派で、スイスの平和主義者だったピエール?セレゾールによって始められた運動である。ワークキャンプでは、貧困地域や社会的な矛盾のある地域に1~3週間程度住み込み、道路建設や、トイレ建設などの土木作業を行なう。
原田は早稲田大学によくいるマスコミ志望の学生だった。就職活動中企業へのエントリーシートには、「差別と偏見にきちんとまなざしを向けた報道をしたい」という意味のことを書いた。しかしそう書いているなかで原田は思ったという。
「自分がイジメられた経験から、差別がよくないとか、キライだとか思うようになったけど、もしかしたら自分自身、知らず知らずのうちに、人を差別してたんじゃないか、そう思うようになった」
それを確かめるために、ハンセン病村でのワークキャンプに参加することに決めたという。原田が始めて中国のハンセン病村を訪れたとき、村の元患者たちは原田たちを出迎えてくれた。そして原田にも握手を求めてきた。
「こわばった表情で、『ニーハオ』そういうのが精一杯だった」
原田は生まれてはじめての中国のハンセン病との出会いをそう語る。帰国後、原田はマスコミ業界への就職活動を再開するが、結果はことごとく不採用だった。一時期は大学院進学も考えたが、その試験にも不合格だった。
「おれ、中国のハンセン病村に暮らす。そしてハンセン病村の周囲の学生をハンセン病村に呼び込むんだ」
原田はそう決意した。今から3年前のことだ。
「おれもじいちゃん(原田は小牧のことをそう呼ぶ)も、みんなの前で宣言して、もう後戻りできないようにして何かやるんだ。それがじいちゃんとの共通点だ」
その言葉通り、原田は周囲の人間に、中国のハンセン病村に住み着くことを宣言し、日本を後にする。手には所属するボランティア団体の先輩たちがくれたカンパ。たかだか、2,30万円の金をにぎりしめ、原田は単身、中国へ向かった。
原田の活動、その後、そして小牧との出会い
原田はハンセン病村で、回復者の身の回りの世話をするかたわら、中国国内の大学をまわり、ハンセン病に対する理解を訴え、学生に対してハンセン病村でのワークキャンプへの参加を呼びかけ、中国のハンセン病村にワークキャンプを普及させようと駆けずり回った。
この原田の熱意と活動に呼応し、徐々に中国の学生もハンセン病やワークキャンプに関心を示し始め、原田が中国に住み始めて1年がたった頃、中国各所のハンセン病村でワークキャンプが開催された。しかしそれに伴い、それぞれのワークキャンプの情報を集約するものが必要となり、原田は広東省東部のハンセン病村を後にし、中国南部最大の都市広州市でワークキャンプコーディネートセンター「家(中国語の発音でJIA)を中国の学生とともに設立した。
原田は現在、中国で活動しながら年数回、日本に帰国。支援者をはじめとする人たちの前で活動報告を行ない、そこで集められるカンパで生活している。企業や財団からの生活費の援助は一切ない。
2005年3月小牧三度目の訪中の際、南寧にて小牧と原田は初めて言葉を交わす。ハンセン病村に向かうバスの中だった。その移動時間3時間、二人の会話は途切れることがなかったという。そのなかで小牧はぽつりと言った。
「おれ、雲南省に行きたいんだ」
自分が寄付したお金で建てられた、ハンセン病村の学校を訪れるのが小牧の夢だった。
「それなら、5月に雲南省の昆明でワークショップがあるんですよ。ぜひ来てください」
原田は言った。ワークキャンプが中国の学生たちの間で徐々に浸透していく中、ハンセン病村の調査を行い、ニーズを発掘し、ワークキャンプをコーディネートする人材が不足していた。そのコーディネーターを養成する目的で、ワークショップが開催されたのである。最初小牧は断ったが、あまりに原田が熱意を持って誘うので、結局それに小牧は参加。通算4回目の訪中だった。そこで小牧は、念願だった小学校の訪問を果たす。そしてその学校に通う多くの子供たちと出会った。そして、こどものひとりを抱き上げた。
「涙をこらえるのが、大変だった」
小牧はそう振り返る。子供を抱き上げたのは、75年の生涯で初めてのことだった。
「75歳にして初めて、生きてるってゆう」感じだねぇ。小牧は原田にそう語ったという。
「そしたら今度は8月に桂林でワークキャンプがあるって(原田が)いうんだ。それに来いって。何もせんでいいから、来いっていうから、やっぱり結局、行ったんだ」
更なる訪中-初めてのワークキャンプにて
2005年8月、小牧は日本の学生、そして中国で医学を学ぶ学生とともに、中国桂林のハンセン病村でのワークキャンプに参加した。その村の村人の傷を見て、小牧は驚く。傷の治療がまったくなされていなかった。村人の傷の手当をする常駐の看護師はおらず、村人自身がみずからの傷の手当をすることもなかった。
そこで小牧は傷の手当の方法を村の人、そしてワークキャンプに参加した地元大学の学生たちに熱心に伝えた。しかし、時間は十分ではなかった。2週間というワークキャンプの期間では、村の人たちに傷の手当を習慣づけるには短すぎた。ワークキャンプの期間が過ぎれば、日本の学生も中国の学生も授業のため、このハンセン病村を後にしなくてはならない。そして小牧は決意する。
「村の人たちにある程度まで、傷の手当の習慣ができるまで、わし、ひとりでこの村に残るわ」
本気だった。結局、小牧はたった一人でハンセン病村に滞在。村人に傷の手当てを教えた。そのかわりに村の人たちは、小牧に食事を毎食、料理してくれた。夏のワークキャンプから季節も秋に近づく10月、ワークキャンプから数えて二ヵ月後に、小牧は傷の手当を村人にひととおり伝え、日本に帰国する。その月、またひとつ大きな出来事が起きた。
ハンセン病村ワークキャンプ、その長い潜伏期間
「おれな、会う前から、(原田)リョウタロウのこと、気にはなってたんだ。あいつがボランティア団体のニューズレターに書いとっただろ、中国の学生を(ワークキャンプに)まき込むんだ!って。どうやってやるんだろう…って気になっとった。そしてしばらくして(新しいニューズレターを)見てみたら、驚いた。これは何かが中国で起きている。(原田に)会ってみたい! そう思った」
原田が大学在学中に参加したワークキャンプは、韓国の若者のリーダーシップの下、日韓共同で開催された。2001年のことだった。この日韓共催のワークキャンプには、長い潜伏期間がある。今からおよそ30年前、日本のボランティアグループ、FIWC(フレンズ国際ワークキャンプ)関西委員会の学生たちは、韓国のハンセン病定着村にてワークキャンプを開始した。この活動は現在まで継続されている。しかし韓国のハンセン病定着村の生活状況も、韓国の経済成長とともに徐々に改善されていく。そこで、これまでのノウハウ、ネットワークを生かし、日本でも韓国でもない第三国でワークキャンプを開催しようという機運が高まり、2001年に中国のハンセン病村で最初のワークキャンプが開催される。原田は翌年の2002年のワークキャンプに参加。しかし当時、中国のハンセン病村で開催されるワークキャンプに参加する中国の学生は一人もいなかった。
「そうだな、中国の学生たちがワークキャンプに参加するようになるには、あと10年くらいはかかるかな」
ワークキャンプが開催された中国のハンセン病村の村長はそう語ったという。
「中国のハンセン病村に、中国の学生を呼び込むんだ」
そう決意した原田が中国に移り住んで、三年が経過した。この三年、原田は中国のハンセン病村、そして中国の大学を駆けずり回った。支援者からもらったカンパを節約するため、長距離の移動も飛行機を使わず、長距離バスを使った。10時間を越える長距離移動も決して珍しくはなく、原田にとっては日常だった。長距離移動中もホテルには泊まらず、ハンセン病村で寝泊りした。
この原田の活動に中国の学生たちも徐々に答え始めた。
「ハンセン病って本当にうつらないのか?」
怪訝な表情で原田にそう訪ねていた学生たちも、徐々にハンセン病村でのワークキャンプに参加し始め、現在では10箇所以上の村で、日中韓の若者たちの手によるワークキャンプが開催されている。
「ハンセン病」がアジアをつなぐ
私たちが便宜上呼称する、中国の「ハンセン病村」にハンセン病患者はいない。その多くの村には、常駐するハンセン病の専門医もいない。そこにいるのは、病気が癒えた後も社会から「ハンセン病元患者」と呼称され続ける人たちである。
かつて日本のハンセン病療養所で、入所者の詩の指導に熱心に取り組んだ大江満男は、「ハンセン病がアジアをつなぐ」というアイデアを提唱したといわれる。大江は、経済発展でもなく、文化交流でもなく、「ハンセン病」がアジアの国々を結び付けていくと考えた。これは詩人の直感だろうか?
小牧を引き寄せ、原田と結びつけた場所は、中国のハンセン病村であった。日本の学生、韓国の学生、中国の学生を呼び寄せ、結びつけた場所もハンセン病村であった。彼らを呼び寄せ、結び付けているのは、時給金額でもなければ、観光スポットでもない。ハンセン病患者のいないハンセン病村にあるのはいったい何なのであろうか?
ただひとつ言えるのは、アジアの人々を結びつける土壌として、「ハンセン病村」とは非常に栄養分に富んでいるものであるということだ。
原田はこの三年間の間にハンセン病村で、小牧と並ぶ大きな人間と出会うことになる。原田が中国に滞在して最初の一年を過ごした広東省東部にあるハンセン病村の付近の大学に通っていた学生だった。彼女は原田を通して、自分の通う大学近くにあるハンセン病村の存在をはじめて知り、そこに足を踏み入れ、その後定期的に通いはじめた。中国滞在一年目の原田を支えた女性である。そして原田は、この女性と2005年10月結婚した。
小牧義美という社会復帰
「おれは昔から人が予想せんことを平気でやるトコがあったわぁ。人が『えー!!』ということ平気でやりよったねぇ」
中国から帰国した小牧は大きな決心をする。社会復帰である。しかし通常の社会復帰とは根本的に異なる社会復帰である。ふるさとに帰る社会復帰ではないのである。小牧の行き先は中国。原田とともに中国のハンセン病村で活動するため、ふるさとではなく、異国の地に社会復帰する。
「パチンコしても、本当に疲れて帰ってたよ。あー、おれももう長くないなあ、そう思っとったぁ。そやから二年前、糖尿病って言われたときはショックだったなぁ。おれの人生もここまでかって…。だから(逆に)どこで死んでもいいわぁって(思うようになった)」
小牧はその社会復帰の三ヵ月後、桂林の夜空の下で、何十年も昔の自分を思い出すかのようにそう語った。その日も小牧は、村の人たちの傷の手当を、また新たな学生に熱心に指導していた。
「(こういう形で社会復帰をしたら)リョウタロウに迷惑がかかるのは間違いない。だけど、それでも受け止めてくれるのなら、それ以上のことを返さなくてならんし、返す自信もあった。それは自分の58年の療養所暮らしの体験を活かす、ってことだ。中国のハンセンの村の人に、手当ての仕方を教えるんだ」
小牧はこの決意のもと、2006年1月28日、国立ハンセン病療養所星塚敬愛園を退所。療友たちはホテルの大広間を貸しきり、壮大な送別会を開いてくれた。敬愛園ではこれまで30人近くの社会復帰者がいたが、送別会が開かれたのは小牧だけだったという。その療友たちは小牧に向かってこういった。「お前は星塚で最後の社会復帰者だ」と。75歳、糖尿病を持病に持ち、極度の弱視を抱えるある男性の、私たちの社会復帰の概念を超えた社会復帰である。
奇妙なスィートホーム
2006年2月末、原田の新居を訪問した。広州市の東部のアパートの一室である。そこで原田は新婚生活を送っていた。小牧の姿もそこにあった。三人の同居暮らしである。そう聞いて私は原田の新居を訪ねたが、そこにはもう一人別の人物がいた。22歳の中国の若者、ハンセン病患者である。
以下、原田が支援者向けに発行している中国駐在員活動報告書をもとに、彼を紹介する。
彼は広西省のハンセン病村にいた。そこで原田と出会う。
「おれは金持ちになりたい。金でも持っていかないと、地元でおれのことを認めてくれるやつなんていないんだ」
彼は有り金をはたいて広西省はずれのハンセン病村から、中国南部最大の都市である広州までやって来た。そこで原田の家に転がり込み、湖南料理のレストランでアルバイトを始める。店長との面接時は原田も付き添ったという。面接の時、店長は訪ねた。「根性はあるか」と。彼は、「ある」そうしっかり答えたという。
「4年間ハンセン病村にいたんだ。つらくたってなんだってできるさ」
面接の帰り道、彼は原田にそう語ったという。
ということで、現在原田の新居には4人の人間が暮らしている。4人とも血のつながりはまったくない。原田と原田の新妻の中国人、日本のハンセン病療養所から社会復帰した75歳のおじいちゃん、そして中国広西省からやってきた中国の若者(まもなく彼は、ハンセン病を治癒)。そこはもう若い夫婦のスィートホームというより、ハンセン病社会復帰センターといったほうが実情に近いような奇妙な、それでいて楽しそうな空間であった。
「なぜ『中国の』ハンセン病なの?」
原田が中国のハンセン病村に住みつくことを決心した頃、原田はよく人からたずねられたという。
「どうして中国のハンセン病なの? 日本にもハンセン病の問題はまだまだ未解決の部分があるし、どうして日本でやらないの?」
原田は当初、この問いにうまく答えられなかったという。
「『縁みたいなものですかねぇ…」。そういってごまかしてたのかも…」
そう語る原田は続ける。
「だけどじいちゃん(小牧)の姿を見てわかったんだ。ハンセン(病)の問題に日本も中国もないって。全部、つながってるって、おれ、中国でハンセンの問題に取り組んでるけど、それみて日本のハンセン病の療養所の人が社会復帰しようって決心したんだからさ」
日本のハンセン病問題にとって大きな問題のひとつは、療養所入所者の社会復帰の問題であろう。特効薬が開発され、治る病となり、またハンセン病元患者を縛ってきたらい予防法が廃止され、さらには国が過去のハンセン病政策の誤りを認めた今でさえ、ハンセン病療養所から社会復帰を果たした人の数はきわめて少ない。ふるさと帰還事業など、行政の対策も見られるが、今現在の入所者にとって社会復帰がきわめてむつかしいことであることは間違いがない。これは日本に限らず、中国でも事情は同じだ。
原田がこの三年間でなしえたことは、中国の学生にハンセン病村でのワークキャンプを広めたこと、ハンセン病村に人の往来をつくったことなど枚挙に暇がないが、その最大のものとは、二人のハンセン病患者、元患者を社会復帰させたことであろう。一人は中国人、もう一人は日本人であった。
「ハンセンの問題に中国も日本もない」
原田の奇妙な新婚生活は、そのことを雄弁に語っている。
過去の検証、反省だけでなく、いまつくるささやかなしあわせ
らい予防法廃止から10年。ハンセン病国家賠償訴訟判決から5年。ハンセン病にとって節目の年である今、私たちはハンセン病をどう捉え、どう向き合っていけばいいのか。そして中国の片田舎で、ハンセン病に向き合うこの二人の人間の生きる姿が私たちに語りかけてくるものは何か。
58年の療養生活にみずから終止符を打ち、75歳を迎えたいま、糖尿病と極度の弱視を抱えながら、言葉も文化もことなる地へ向かうことを決意した小牧。彼が復帰した社会とはいったい何だったか?
単身中国に乗り込み、文字通り裸一貫からハンセン病村での活動をはじめ、「ハンセン病村に骨を埋めるんだ」と決意を語る原田。彼の選んだ人生とはいったい何だったか? 原田は敬虔なクリスチャンでもなければ、人一倍の倫理意識を持つ人間でもなければ、正義感に燃え上がるタイプの人間でもない。どちらかといえば少なくとも学生時代はクールなタイプの人間だった。その彼をここまでひきつける「ハンセン病」とはいったい何か?
原田が通いつめる中国のハンセン病村に暮らす人々の平均年齢はどこも70歳前後である。彼らの所得状況、栄養状況、医療事情、生活状況から、素人目に判断するなら、10年、20年でこのような村は消滅していくことだろう。それは原田にとって人生をかけた活動の地も消滅することを意味する。
このハンセン病にとって節目の年の今年、私たちひとりひとりがハンセン病とどう向かい合うのか。過去の検証はもちろん大切である。しかしその一方、誰の目に留まることもなく、ひっそりと消滅への道をたどろうとしているものへのまなざしも忘れてはならない。そこで小牧と原田は、村の人たちのとの交流を通してそこにささやかな幸せをつくりだしている。小牧や原田から「人権」といった意味の言葉はあまり聞かれない。彼らから、人権意識や正義感のにおいはあまり感じられない。二人とも周囲が驚くような人生を選択し、聞いたこともないような活動をやっているにもかかわらず、彼ら二人は、非常に自然体でそれを行なっているように見えるから不思議である。
「10年後か20年後かに、中国のハンセン病村の人がみんな亡くなって、村自体がなくなったらどうするんだ?ってリョウタロウに聞いたらな、『そうだな、中国でカレー屋でも開こうかな』って言っとったわ。アイツ、カレー好きだからな」
小牧は笑いながらそう教えてくれた。
二人の生きかた
大学に籍を置いているからだろうか。高校生の息子をもつ母親から、息子の進路相談をされることがある。去年は武蔵高校に通う生徒の母親、今年は函館ラサールである。高校名を聞いたとたん、進路や将来にあたって何の心配もないという印象しか受けない。それより私にとっては、小牧と原田の二人がこの先どうなっていくのかの方がよっぽど気にかかる。
中国のハンセン病村の村人の生活は、地方政府から支給されるお金に頼るが、原田の生活は、日本にいる彼の支援者からのカンパに頼る。これからも支援者たちは、原田の活動に賛意を示し、定期的にカンパをしてくれるのだろうか。
中国のハンセン病村の村人は、ハンセン病は治癒しているが、深刻な後遺症を抱える村人が多い。しかし小牧自身、糖尿病を持病として抱える。中国ハンセン病村で、学生と雑魚寝しながら進める活動が、彼にとって過酷でないはずはない。
しかし二人の姿は私にはまぶしく映る。いや私だけではない。中国の若者にとってもまぶしく映るからこそ、彼らに集おうとする中国の若者たちは後を絶たない。
三年前、日本から中国に旅たつとき、原田の表情には幼さが残っていた。今の彼の表情にその幼さは微塵もない。無駄なぜい肉がすべてそぎ落とされた精悍な顔立ちである。村人とはやさしく接するが、つねに黒目はぎらぎら光っている。
小牧の口からあきらめの言葉がこぼれることはない。愚痴がこぼれることもない。常にこの先どうしていきたいのか、どうすべきなのか、それを日夜考えているように見える。糖尿病と宣告され、自分の人生の終局を感じた日々のことなど、どこかに吹き飛んでいるように見える。生きる力に満ちていると表現すべきか。それを物語るエピソードを小牧は教えてくれた。
「ある村に深刻な傷を抱えた人がおおった。それをみたときは、背筋が冷たくなるくらいの、そりゃもうひどい傷だ。聞いたら食欲がない、って。そうしたら周りの村人がこういうんだ。『ああ、もうあいつはダメだ。もうその時期(亡くなる時期)なんだ。そっとしておけ』って」
ここまで話して小牧は語気を荒げる。
「それがおかしい!! 傷というものは確かに根気は要るが、辛抱強く治療したら治るんだ。あきらめたらダメなんだ。本人に生きようとする意思をもってもらうこと、それがワークキャンプの精神なんだと思う。おれはそう思っとる」
彼ら二人が発しているもの
日本経済は雇用を伴わないかたちで回復し、「勝ち組み」「負け組み」という言葉が使われるほど、日本社会は二極化した。世界有数の経済大国にまで上りつめた国で、毎年3万人以上の人がみずから命を絶つ。2005年12月10日付ワシントンポストによれば、イラク戦争によるイラク民間人の死者数は、最小で207,368人、最大で30,877人であるという。その一方で、テロも戦争もない国での自殺者数が年間3万人である。
メディアには「ニート」「フリーター」という言葉が踊り、無気力感、閉塞感が社会に漂う。その若者の無気力感、閉塞感と、小牧がみずからの58年間の療養所生活を総括していった「アワみたいなもんだったわ」という言葉が私には重なって聞こえる。
小牧はこうも言った。
「日本は豊かになりすぎた。それがわしらの患者運動をむつかしくしたように思う。ハンセン病は特別待遇。いつしか当たり前のことのようにそう思っとったんかもしれんが、それは良くない」
小牧は日本の療養所での安定した生活を捨てた。いつでも医療機関を利用できる環境を捨てた。そして動いた。
原田は大学卒業後、就職浪人をしてまで就職する道を選ばなかった。エリート大学のエリート学部を卒業し、一流企業から内定をもらい、周りの学生仲間から「すごいね」といわれる世界を捨てた。そしてそれと一緒に、その価値観も捨てた。そんなものくだらいものにみえた。もっと大切なものがあると思った。そして動いた。
「日本は経済もダメ。社会はよどんでいる。若者に動きもない。だからわし言うたった。『動け!』って」
原田とともに奈良の天理大学の学生の前で、中国のハンセン病での活動を報告する際、小牧は学生に向かってそう言ったという。
40以上も年の離れた小牧と原田に共通するものは、中国のハンセン病への取り組みということになろうか。しかしそんな共通点は、実は小さなものに過ぎないように思える。もっと本質的に共鳴する何かが二人にはある。それは何か。それは、この二人はどちらも自らの身を危険にさらしてまで、死に物狂いで「動いている」ということだ。みずからが感じ取った問題を真摯に受け止め、みずからにできることを問い、そしてそれを実行に移してきた。動いてきたのだ。お金が人間にもたらしてくれる、利便性、安心感、優越感、そういったものたちをすべて切って捨ててまで動いた。誰からも目を向けられることのない人たちを見て、自分にできることを問うた。そして動いた。捨てたものが大きいだけに、二人とも死に物狂いである。それこそがこの二人の最大の共通点であり、彼ら二人の誰にも犯されない強固な人間同士の結びつきを生んでいるように思える。
豊かな生活と引き換えに日本の若者が失ったものが、活力やエネルギーだとするなら、彼らの生き方には、無限のエネルギー体-「生きる命の底力」のようなもの充満している。
散るもよし 今を盛りの 桜かな -75歳、人生盛りの決断
一度小牧が私のぼろアパートを、原田とともに訪問したことがあった。日本で活動の報告をするために帰国したときである。
「おれな、字、書けるぞ。一筆なんぞ、書いてやろうか」
そう小牧は言うと、筆ペンを手に取り、さらっと一句書き上げた。
散るもよし
今を盛りの
桜かな
この一句にこめられた意味を私が知るのは、それより数ヶ月後のことである。桂林の夜空の下で小牧はこう教えてくれた。
「どこに暮らしていても一日は一日。一年は一年。その日一日に悔いがなければ、すべてにおいて悔いはない。これからの人生、悔いが残るような生き方をするくらいなら、死んだ方がマシだ。あのな、人間ていうのはな、人生の決断をしたとき、それが人生の盛りなんだ。それが、しわくちゃの75歳のじいちゃんでも、人生の決断をするとき、それが人間にとっての盛りのときなんだ」
「散るもよし」この句には、小牧の社会復帰への決心がこめられていた。この決心で自分が散ってしまおうがかまいはしない。今ここで異郷の土の上に倒れ、この身果ててしまおうとも、決して後悔などない。どうなってしまおうと、自分が下した決断なのだ。この決断を今ここでなしえたということこそ、今の自分が人生の盛りであることを示しているのだ。今この一日を悔いなく過ごしている、そこに75歳の「生きる命の底力」がみなぎっている。その姿は、今を盛りに咲きほこる、桜のごとく、美しかった。