呂おじいちゃん-本名【呂先廉】-は、海南省文昌市昇谷坡村の村人でした。1939年に海南省錦山陳で生まれ、1958年にハンセン病を患い村に住み始め、1976年12月に完治しました。人生の大半の時間を昇谷坡村ですごし、2014年8月25日に帰らぬ人となりました。
彼との思い出を、【蔡冠平】という一人のキャンパーが振り返り、文章にしました。
<目次>
1.村で起きた小さな出来事
2.あなたは病気になりました
3.初めて行ったあなたの家
4.別れ
4.別れ
JIAの年会に参加する前の晩が、あなたの消息を聞く最後となりました。私はおじさんに電話して、明日南寧の大会に参加するから、それが終わったらまた会いに行くよ、というつもりでした。けれどおじさんは、こう答えました。“おじいさんは昨日の夜10時過ぎに、亡くなったよ。最後は苦しまずにね。”しばらく、私たちは言葉を発することができませんでした。おじさんの疲れ切った様子が伝わってきたけれど、私はどうしても聞かずにはいられませんでした。
“呂おじいちゃん、どこに埋葬されたんですか?”
“実家だよ。昔は(ハンセンの)病気で家にいられなかったけども、やっと帰って来れた。今日、おじさんの遺品も全部燃やして処分したよ。”
“私たちの作ったアルバムも、燃やしちゃったんですか?”
“さあなあ、燃やしたんじゃないかな。”
確かにその後、私たちがアルバムを目にすることはありませんでした。とても悲しいのに、泣くことができませんでした。後ろめたさで心がいっぱいでした。あの時、あんなにたくさんの“時間が出来たらまた村に行くね”という言い訳をしなければ、あなたが亡くなるその瞬間、もっとたくさんの思い出を感じて、温かい気持ちでその時を迎えられたかもしれない。
電話越しの私とおじさんはどちらも気持ちが動転していて、話もそこそこに電話を切りました。けれどしばらくすると、おじさんからもう一度電話がかかってきました。おじさんは、“もし何か困ったことがあったら、いつでも連絡していいんだよ。呂おじいちゃんはいなくなったけれど、自分たちを親戚のように思って頼ってほしい。”と言いました。あまりにも予想外の言葉に、私は電話越しに“うん、うん”とうなずくことしかできませんでした。おじさんは続けて、“年末にも遊びにおいで。”と言いましたが、少し間を空けて、“もちろん、学業を優先することが一番だからね”と言いました。私はまた、“はい。分かりました。”としか答えられませんでした。
呂おじいちゃんのおじさんが、もう一度電話をしてきてくれるとは思いもしなかったし、こんなことを言われるとも想像していませんでした。こんな親切に、真摯に話をしてくれて、それは、初めて私が呂おじいちゃんに会ったときに見た誠実そうな笑顔を思い出させました。心が温かくなるのを感じました。
それから今まで、おじさんに連絡はしていません。でもこの事は私の心の中に深く根付いています。いつの日かまたおじさんに、そして呂おじいちゃんに、会いに行く日が来ると思います。
この出来事から、“村人の話を聞き、記録に残すことは、彼らのために私たちが残してあげられることである”、そんな風に考えるようになりました。