春の夜、北京の胡同裏にある若者に大人気の芝居小屋に出かけた。あるトークセッションを聞くためだ。入場券は約2400円と日本の基準でも決して安くないが、会場は満席。ほとんどが中国の20代前後の若者だ。この晩、舞台に立ったのは、中国のハンセン病回復者の支援という途方もなく思える活動をゼロから立ち上げ、10年以上支援を続ける原田鐐太郎さんと彼の仲間たちだ。
ハンセン病については、私もちゃんとは知らなかったので、正直、遠く重いテーマだった。ただ、日本の青年がなぜ中国の関係者と一緒に頑張っているのか知りたくて行ってきた。この機会に知ったことだが、ハンセン病とは神経や皮膚をむしばむ細菌性の病気で、感染を恐れた周囲や国により患者は強制隔離に遭ってきた。既に完治する複合薬もできたが、誤解と偏見から差別は根強く残るという。「無知は罪」という言葉が頭をよぎった。
原田さんは、大学生ボランティアがハンセン病回復者の住む隔離村で労働奉仕する活動をしている。短期合宿をしながらトイレや台所などを整備し、回復者のケアを行っている。
原田さんが活動を始めたいきさつや、その後の紆余曲折は色々ある。ただ、私が分かったのは、彼は偶然にも中国のハンセン病回復者に出会ってしまったのだ。そして、そこで生きる人と知り合い「つながった」。その際、苦しみや怒り、情熱などいろんな思いがあったと思う。そして、このつながりをもっと広く、中国や日本の学生と共有したいとの思いからプロジェクトを続けてきたのだと思う。
回復者の中国のお婆さんが彼に言ったという言葉が胸を打った。「トイレ建設も大切だけど、それは代用もできる。それよりも自然にあなたが私の隣で話をしてくれることが一番なんだよ」と。「一番大切なのは、人と人としてのつながりを築くことだと思う」と原田さんはいう。聞きながら、深く頷いた。
以前、私も中国の貧困農村支援の仕事をしていた。やってみてよく分かったが、本当に良い援助を実現するのは大変なことだ。学校や病院、文具や図書を「あげる」援助は、やりやすく、成果も一目瞭然で分かり易い。しかし、学校はできても、先生がいないとか、ビデオや図書を寄付したのに、部屋に鍵をかけられてしまったなど別の問題も多く見てきた。モノをあげるだけの援助はモノで終わりがちだ。本当の発展のためには、モノをきっかけにして、地元の人自身が変わらなくてはならない。
その点、原田さんの活動は人と人がつながることに主眼がある。この日の晩も、通常の開発プロジェクトの紹介にありがちな「何何を投入し、作りました」と言う報告ではなかった。原田さんはどうやって見ず知らずの中国のハンセン病回復者の村民と「つながったか」について話した。会場の若者たちは原田さんの生身の経験に聞き入った。
また、この支援は双方向だ。ボランティアの若者たちは、辛酸をなめてきた村民が持つ力強い精神を感じることで、逆に助けられ、成長させられる面があるという。一方的にこちらがモノをあげて写真を撮って完了するのではない。双方向で人のエネルギーが未来に向かって交じりあい、上向きのスパイラルが生まれるように見える。
原田さんの篤(あつ)い生き方は、そびえ立つ国境をするりと飛び越えて中国の若者の心を揺すぶっていた。帰り路、夜の胡同を一人で歩きながら、支援の神髄とはこういうものかもしれないと思った。
読売新聞(国際版)リレーエッセイ 2017年5月31日掲載
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斎藤 淳子:北京在住ライター
米国で修士号取得後北京在住。中国人民大学に国費留学、在北京のジャイカ(JICA)や在北京日本大使館などを経て、中国社会全般に関し調査研究をもとに執筆。読売新聞、共同通信、時事通信、婦人公論、オルタナ、組合ひろば、連合、中国誌 瞭望東方週刊などに寄稿。共著編に『在中国日本人108人のそれでも私たちが中国に住む理由』、『日中対立を超える発信力』など。グローバルプレス会員、二児の母。