ワークキャンプと私:夏真っ盛りの2011年8月、私はワークキャンプと出会い、ハンセン病快復村へ足を踏み入れ、今はもう心から離れない村人たちと出逢い、“世にも珍しい巡り合わせ”を経験した。初めは“人を助ける人”として村に行ったが、行くたびに私自身が癒されていった。人との関わりがこんなにも簡単で、純粋であれることに驚かされた。卒業の年、私は迷いの中で“ソーシャルワーカー”という専門と職業を知った。“他を助けるものは自らも救われる”、“生命が生命と共鳴する”という理念に打たれた私は、私と村との関係もまさにこの通りだったと感じた。その後、中山大学大学院入学試験で敗北した私は、重いプレッシャーを抱えたままソーシャルワーカーへの道を歩き出した。今ではもう1年あまりになる。現実は確かに、理想の100倍も残酷だった。けれど初心を後悔はしていない。苦しみながらも、私はより良い自分へと成長している。ソーシャルワーカーという人を軸にしたこの仕事は、村で私が得たのと同じようなたくさんの優しさと力を与えてくれた。
最も良い時代にワークキャンプと出逢えたこと、そして決して諦めることなく、今の温かい自分を育てた自分自身に感謝したい。
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それはかつて忘れ去られた命だったかもしれない。彼らはその命を背負い、暗闇の中を半世紀以上強く歩み続きた。楽観的な、もしくは淡々とした様子で、今日まで生きてきた。怖気づかない私をつくってくれた、出逢いに感謝する。
私たちは偶然この世界にたどり着き、命の終わりに向かって進む。ゴールは誰も分からないから、誰もが身を逸らそうとする。けれど、私の恩人である彼は、死に近づいたその時も、それほど苦しみや恐怖を感じていないようだった。
“わしももう90何歳、曾孫まで見れて、衣食足りて、心配することは何もない。もう死ぬのも悪くないなぁ…。”村人はよくそんなことを言う。初め、私はそんな話を避けていた。まだ若い私にとって、村人と“死”という人を怯ませるような話題に向き合うのはとても怖かった。この数年間、ボランティア、ソーシャルワーカーとして歩む中で少しずつ死の力に触れる機会が増え、優位な視点からそれを観察してきた。村人に死が訪れ、日に日に彼らが光を発するように見えた。
この、自分が“死ぬのも悪くないなぁ”という村人は、94歳という高齢を迎えた趙有煥おじいちゃんだ。90数歳、確かに老いた。死への道を歩む彼は、とても孤独を感じているに違いないと思っていた。けれど私は少しずつ、この老人が感謝の気持ちを持って豊かな晩年を過ごしていることに気付いた。
村に帰り、趙おじいちゃんに挨拶しに行くたび、彼は好んで学生を傍に留め、政府やボランティアが送ってくれた物資を私たちに披露した。そして、それぞれのものをいつ、誰が、どのように送ってくれたのかを細かく説明する。1枚の写真、1枚の布団、1瓶の油、1台の車いす…全てのものが彼に“みんながこんなに自分に良くしてくれて、服も食べ物も送ってくれて、そのうえわざわざ会いに来てくれる”と、感慨深く思わせている。感極まったおじいちゃんは、よくこう話した。“わしは昔党員でな、ハンセン病をやってからも、党はわしを見放さなかった。そればっかりか、安心して病院で治療するように勧めてくれた。今だって政府はこんなに気にかけてくれて、お前たち大学生も会いにいてくれて、共産党には本当に感謝しか言い表せん。お前さんたちも、党と一緒に歩むんだよ...”
村に行くと、趙おじいちゃんはいつも私たちを家へ招き、鶏をしめてご馳走してくれる。おじいちゃんの家族は、体を気遣っておじいちゃんに農作業をさせないようにしている。けれど、それでもおじいちゃんは鶏を飼うことをやめない。他の村人から飼料を買って、鶏を育てている。じいちゃんは言う。“お前さんたちが自分に会いに来てくれるのに、鶏でも育てなかったら、年末祝日にうちで何を食べるんだ?”おじいちゃんは年の為歯が悪く、落花生を食べられない。けれど学生たちが落花生好きなのを知って、他の村人から落花生を買っている。私たちと食事するとき、横に1碗の落花生を欠かしたことがない。食事が終わっても残っていると、袋に入れて学生に持ち帰らせる。
この数年間、趙おじいちゃんはこうして感謝の気持ちを抱き、過去に彼を訪れた幸せ―誰が会いに来て、どんな風に過ごしていったか―を、私たちと一緒に懐かしんだ。そして、彼が一生懸命育てた鶏で私たちのお腹をいっぱいにした。
おじいちゃんと話していると、彼の一生はきっととても幸せだったに違いないと思う。でも、趙おじいちゃんは帝の寵児ではない。若くして両親をなくし、続けたかった学業を手放さざるを得ず、孤独と向き合う生活を送ってきた。成人すると、背丈がそれほど大きくない彼は、自身が一生懸命見つけた妻に頼りながら、幸せな家庭生活を送り始めた。賢さを認められて村の隊長を任され、順調に中国共産党に加入し、輝かしい人生を送ろうとしたまさにその時、不幸にもハンセン病が彼を襲った。こうして仕事の道を絶たれ、病気を患った彼は隔離され、設立されたばかりの大新岜関医院へやってきた。そして、ここで10年を過ごした。この10年間をどのように過ごしてきたのか、どんな苦しみがあったのか、老齢のおじいちゃんが話したことはない。おじいちゃんが話すのはいつも、病床でも自分に関心を持ってくれる人がいたこと、完治後も夫として、父として迎えてくれた家族への感謝だった。
年をとり、体も老い、趙おじいちゃんの体は日増しに弱くなっていった。食欲も減り、家からもあまり出てこなくなったころ、私はちょうど村に帰った。床に伏したおじいちゃんに向き合うことにためらいも少し覚えたが、それでも私はある日の午後を選び、一人でおじいちゃんの家へ行った。私たちは彼の家族のことを話した。おじいちゃんは、長男、その嫁はすでに亡くなったこと、自分も90歳を過ぎて、いつ逝くか分からないことを話した。それを聞いた私は尻込みして、“そんなことないよ、考えすぎだから、早く良くなって”と言いたくなった。でも、その言葉が喉まで出かかって、ぐっと飲み込んだ。おじいちゃんが両目を潤ませて静かに横たわっているのを見て、私は勇気を振り絞り、おじいちゃんの死と向き合うことにした。“そうかも知れない。いつかは分からないけど、皆その日は来るからね。”私はなるべく冷静さを保って言った。おじいちゃんは静かに前の方を見て、こう答えた。“死んだらなぁ、骨を大きな海に撒いてほしいなぁ。”私はおじいちゃんの手を握った。涙が溢れて止まらなかった。おじいちゃんは私の状態に気付かず、そのまま続けた。“90何年も生きたよ、十分だ。怖いものもないなぁ。たまにお前さんがいてくれたことを思うと、心があったかあくなるよ。”私はおじいちゃんを抱きしめて、うんうんとうなずいた。この時から、私は村人と死について話す恐怖を手放すことが出来た。死が村人を連れて行ってしまうことを恐れず、一緒に寄り添う時、私は村人の命の力を感じるようになった。そして、自分自身も死を以前ほど恐れなくなった。命が尽きる日がいつか来たとしても、感謝というつれあいがあれば、村人はきっとそれほど孤独ではないだろう。
おじいちゃんは、命には必ずひびが入っているといった。けれど、そのひび割れた命から、私は感謝の光を透かして見ることが出来た。その光は、真っ暗だった世界に新しい何かをもたらした。
どうか、元気で。縁があれば、きっとまた会いましょう。