JIAワークキャンプ。1-2週間のハンセン病快復村滞在、キャンプ組織者となれば約半年間の準備期間を経て臨むこの活動に参加できるのは、大学生の特権かもしれない。しかし、ワークキャンプは社会に出ると同時に終わるものでもない。村人、キャンパーと共に学び、刺激を受け、成長した経験は、社会に出てからも何らかの形でその人の中に生き続ける。
JIAが2004年に中国で活動を始めてから、10年以上の月日が経った。当時のキャンパー達は今どこで、何をしているのだろうか。
都会で育った大牛にとって、ワークキャンプで訪れた村はとても新鮮だった。彼にとってハンセン病快復村は自然にあふれ、人と人とのつながりを感じられる場所だった。同時に、活動をしながら村だけにとどまっているだけでいいのか?という漠然とした思いも生まれるようになった。他の世界のことをもっと見てみたい。自分の力を使って何かをしてみたいと感じるようになった。
そして大牛は2011年、その想いを形にした。自分で何かを育ててみたい、という想いから、今活動拠点としている中山へやってくる。ここへ来た当時は何をすればいいかも分からず、まずは家を建てたり、水を引いたり、畑を耕したりすることから始めた。大牛曰く、まさにJIAの“Joy In Action(議論し、考えるだけでは、問題の解決にはつながらない。行動が必要だ)”だったという。
農業を続けるにつれ、中国農家が抱える問題を肌で感じた。野菜は安値で形が良くないと売れない。その野菜を作るため、人の体に害を与える農薬が使われている。大量に野菜を生産するために使われる肥料は土地を痩せさせる一方だ。生産者も消費者も望まないサイクルを、なぜ抜け出すことができないのか?大牛は、「顔が見えないからだ」という。生産者と消費者が互いに顔の見える関係を築き、正しい知識を身に着けていれば、どちらにとっても嬉しい状況が作れる。
この考えは、ワークキャンプとも共通している。“ボランティア”と“快復者”だった人たちは、名前のある一人の人として知り合い関わり合うことで、何十年もかけて社会が変えられなかったハンセン病差別の問題を少しずつ解決してきた。農業でも、同様のことが出来るはずだと大牛は考える。
生産者と消費者の架け橋となり顔を見える関係を築くため、大牛は<育てる>から<届ける>へ、すなわち<生産>から<流通>へと仕事を移行していった。現在、契約した農場が作った無農薬の野菜をネットで注文販売するだけでなく、家族が農業を体験できるリゾート地を提供している。こうして消費者が農業と触れ合う機会の中で、農家について、野菜についての情報を発信し、より多くの人に農業とは何か伝えようとしている。彼の願いは、全ての人が平等に安全な野菜を食べられるようになること、そうして双方にメリットがある状態をつくることだ。
大牛は今の仕事とJIAでの経験を、このように語る。
「ワークキャンプに出逢うまで、社会とはこういうものだから慣れるべきで、変えようとする必要はないと思っていた。おかしいことがあっても、仕方がないと思っていた。でも、ワークキャンプを通して分かったのは、動けば必ず誰かが一緒についてきてくれるということ。少しずつだんだん人が集まって、結果本当に何かが変わる。今の農業も全くの素人から始めたけれど、こうして前へ進んでいる。不可能なことをしている、無理だからやめた方がいい、と人から言われても、少しくらいはできると思うようになった。それに、やらなければ何も動かない。」
「JIAにいた時の自分は、状況を知って、議論していた。今はもっと大きなものに立ち向かっていきたいと思うようになった。人の人生には使命があって、何を選択して生きるかはそれぞれ違う。みんなが同じである必要はない。僕にとっての選択は農業だった。」
自ら動いて何かを創ろうとする大牛の周りには、志を同じくした仲間が沢山あつまっていた。みんなで一緒に議論して、みんなで一緒にやる。大牛の中には、ワークキャンプが今も生きていた。
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