
寄り添うこと、それは一番長い愛の告白
文/羅盛壮(学生ボランティア)
ある人は、愛は命に火をつけ、青春を燃やすという。ある人は、愛は渓流のように細く、命に流れ込み潤いを与え続けるという。ある人は、愛は青春の修練で、自身の不足を削ぎ、より良いものを迎えるという。僕は、最も幸せな愛とは最も簡単なものだと思う。愛情には愛の他に寄り添うという形があり、寄り添うことは愛情の中で最も長く続く告白ではないだろうか。
JIAのワークキャンプを通して、僕と新寧周家峰ハンセン病快復村は切っても切れない縁で結ばれた。見知らぬ村落だった場所に僕の心が根付き、連休が近づくたび、村人たち、満天の星空、さらさら流れる川の流れが浮かんで心を離れず、いてもたってもいられなくなる。
初めて楊おばあちゃんと鄧おじいちゃんに会ったのは、2013年の清明節だった。楊おばあちゃんは笑うのが大好きで、笑うとまるで無邪気な子供みたいで、色々な方法で僕たちを笑わせる。病の苦みも長い年月も、彼女の魅力的な笑顔を奪うことはできなかったようだ。鄧おじいちゃんは元気で、優しく、親切で、村一番健康だ。楊おばあちゃんは体が弱く病気持ちで、胃の病気や心臓病に長年悩まされている。鄧おじいちゃんは、そんなおばあちゃんと共に暮らし、支え続けてきた。寒い日には、おじいちゃんは炭でおばあちゃんの足を暖める。おじいちゃんは時々街へ降り、おばあちゃんの大好物のお菓子を買ってくる。でも、一度に全部はあげない。おばあちゃんの病気が治った後や、沢山ご飯を食べた後、ご褒美として取り出す。80歳を過ぎた2人が子供みたいに戯れる姿を見ていると、思わず吹き出してしまう。おじいちゃんが山へ薪を集めに行くと、おばあちゃんは家の門の前に座り、おじいちゃんが帰ってくるまでずっと山を見つめて待っている。食事の時間になってもおじいちゃんが帰ってこないとおばあちゃんは焦りだし、キャンパーにおじいちゃんを探しに行くようにと急かす。おじいちゃんが薪を担いで帰ってくるのが見えると、おばあちゃんの顔は満面の笑みで溢れる。2人の間の小さな日常は僕の心に焼き付き、そして彼らの愛情にいつも感動した。
鄧おじいちゃんは84歳、楊おばあちゃんは87歳。高齢の2人だが、おじいちゃんは毎朝早起きして、おばあちゃんのご飯を作る。日が昇る頃にはご飯を作り始めるから、おばあちゃんは朝起きるとすぐおじいちゃんの作ったごはんを食べられる。おじいちゃんは辛い物が好物だが、おばあちゃんは胃が悪く辛い物を食べられないから、いつも先におばあちゃんにご飯をよそって、それから自分のお椀に唐辛子を足す。おじいちゃんの細やかな心配りにはいつ見ても感嘆させられる。食事中、二人はあまり話をしない。たまにぽつりと何かを言って、返事がなければそのまま食事を続ける。食べ終わると、おじいちゃんは慣れた手つきで2人分のお椀を洗いに行く。部屋に戻ると、家の事や村で最近起きたこと、村に来たボランティアの学生のことなどをお喋りする。この2人の間の燃え盛るような感情やロマンスは、長年の月日の中で、薪や米、油、醤油、お酢、お茶と同じように使い果たされてしまったのかもしれない。でも、命の中で決して欠かせない習慣、寄り添い合うという最も簡単な方法が、最もつながりの強い愛ではないかと感じる。この愛情は、海にゆっくり流れ出す川の流れのように、春の霧雨のように、音もなく、けれど確かに命を潤している。そして、夏に吹くそよ風のように、冬の木漏れ日のように、人をそっと包み込む。
楊おばあちゃんの性格はちょっとつむじ曲がりだ。機嫌を損ねると子供みたいに拗ねてしまう。僕たちボランティアがどんなに彼女を笑わせようとしても、笑って見せても、ぷいと横を向いて見向きもしない。そこで、賢い僕らは偉大なおじいちゃんの力をお借りする。おじいちゃんはおばあちゃんと向き合って話をする。おばあちゃんを引っ張ってきて座らせる。するとおばあちゃんは、間違ったことをした子供みたいにおじいちゃんのお説教を聞く。こんな時、おじいちゃんはまるで学生に向き合う先生みたいだ。おじいちゃんは言う「…ボランティアの人たちにもうちょっと良くしてあげないと。皆、広西省からはるばる湖南省までこうして会いに来てくれるんだ。容易いことじゃない。いい人達だ。」こういわれると、おばあちゃんの顔にはまた笑顔が戻り、僕たちとお喋りを始めてくれる。ちょっと前までへそを曲げていたのが嘘みたいだ。
きっとこの世界、どんなに嫌なことや苦しいことがあっても、必ずそれを癒してくれる人、心を落ち着かせてくれる人、不機嫌を笑顔に変えてくれる人がいるのだろう。あなたが私の心の安らぎであると言えること、これこそが本当の愛情ではないだろうか。
命を消耗して老いていくと、病気や痛みが伴う。おばあちゃんは体調を壊すと不機嫌になり、怒り出した子供のように手を付けられなくなる。こんな時、おじいちゃんはただ黙っておばあちゃんのベットの横に座っている。食事のときは全部食べるようにと横であやし、食べ終わったのを見届けてから自分の食事をよそい始める。おばあちゃんが病気になると、こうしていつも細やかな心遣いで寄り添っている。ある時僕は、「おじいちゃん、疲れないの?」と聞いた。おじいちゃんはゆっくり頭を振り、心配そうな顔でこういった。「自分が先に逝って、彼女が頼れる人がいなくならないか、心配だよ。わしが死んだら、風邪をひいたときに食事を食べさせてやれる人がいなくなるじゃないか。」言い終わると、おじいちゃんはくるりと背を向け、2人分のお椀を洗いに行った。おじいちゃんの背中を見ながら、自然と涙がこぼれてきた。涙は、僕の心の中まで流れ込んだ。美しく飾った言葉はないけれど、おじいちゃんの気配りと忍耐が、愛とは何なのか、情とは何なのかを、僕に教えてくれた。お前が先に逝って、自分に苦しみを残すのは怖くない。自分が先に逝って、自分よりお前を愛せる人がいなくなることが怖い。これを、真心と呼ぶのだろうか。
生きていれば、必ず忘れがたいことに出逢う。生命という旅を共に歩む人は、その人の命の一部となるだけでなく、命に溶け込んで栄養を体に流して潤してくれるのではないか。離れることのできない、かけがえのない人こそ、人生の中で最も大切な宝だと思う。すべての命には限りがある。何よりも感動させられる愛とは、自らの人生をかけて共に一生寄り添い合うことではないだろうか。