桜が満開の多磨全生園ハンセン病資料館前にて
林志明は8歳でハンセン病発病後、隔離村で32歳になるまで治療を受けた。
その後社会復帰するも、ハンセン病が原因で差別を受け、2度も職を追われる。
母親を養うために、彼は独学で書と絵を学び、路上で売りながら生活を立てていた。
また、道で絵を描きながら、客がいない時には
ハンセン病患者の苦難の一生を語った長編小説『苦難不在人間』を書いた。
この本は1999年に中国、その後香港で出版された。
また、2001年には、ハンセン病患者?快復者として
世界的に顕著な功績を残した者に与えられるウェルスリーベイリー賞を受賞した。
今回の日本滞在中、林志明は様々な衝撃を受けていた。
車の中では、目に入るものは何に関してでも質問をし
食事に招待されたときは、本人の希望で初のフランス料理にもトライした。
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フランス料理にトライ
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また、中国とは比べ物にならない先進的な日本のハンセン病療養所と
そこで生き生きと「語り部」として活躍するハンセン病快復者の姿に言葉を失った。
日本と中国の違いを目の当たりにし、驚きもし、落ち込みもした。
85歳の彼にとって、受け入れ難いこともあったに違いない。
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語り部として活躍する平澤保治氏(左)
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そんな彼の心に、深く刺さった言葉があった。
彼の各絵には『風雨之舟』という雅号がつけられている。
波風に翻弄されながら、海を浮かぶ小舟を自分自身の運命と重ね合わせた。
林志明の個展が企画されたハンセン病資料館の職員の方との食事会で
一人の方が、こうおっしゃった。
「林さんの舟は、確かに波に翻弄されてきたのかもしれませんが、
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