1. 活動概要
2002年、中国のハンセン病快復村にて「ワークキャンプ」という合宿型ボランティア活動を開始し、快復村の生活及び社会環境の改善とその活動の組織化、現地化を徐々に進めていった。2010年頃より、この活動は日本人参加者によりアジアの他地域にも広がっている。
現在までに、ワークキャンプで延べ2万2,000人のボランティア(中国人が9割以上)が中国南部のハンセン病快復村82ヶ所に住み込み、ハンセン病快復者約2,500人のために、家屋やトイレ、台所、浴室の建設や、水道設置、道路舗装などの生活環境整備を行い、活動の過程で周辺地域からハンセン病差別を減少させてきた。
また、広大な中国に点在する多数の快復村において、地元の学生が地元の社会資源と共に地元の村にて持続的かつ自主的に活動を行う体制をつくるべく、2004年に現地団体JIAを設立し、その法人登録や、組織の代表と資金源の現地化、OG/OB会の整備を行い、2020年までに活動の組織化と現地化をほぼ完成した。
そして、この活動は2010年以降アジアの他の国に広がり始め、それぞれが独自に発展しており、相互に支え合うネットワークを形成しつつある。
2. 活動領域-ハンセン病快復村
ハンセン病快復村とは、かつての中国のハンセン病隔離病院の現在の姿を指す。
中国では1957年にハンセン病対策「全国麻風病防治規画」が始まり、政府は全国規模のハンセン病検査を行った。その検査で発見された患者は合計50万人で、山奥や孤島に政府が建設したハンセン病隔離病院全国800ヶ所以上に隔離されていく。
1980年代に世界保健機構の推奨する多剤併用治療が中国で普及し始めると患者の隔離政策は終わり、在宅秘密治療に切り替えられた。それに伴い、隔離病院のハンセン病医療機能はなくなった。その後に残ったのは多くの場合、隔離病院の入院病棟(長屋)と簡単な薬局(風邪薬、鎮痛剤などの処方)のみだ。こうして、かつての隔離病院は現在、差別のために帰る場所のない高齢の快復者だけが暮らす村と化しているため、「ハンセン病快復村」と呼ばれる。
活動開始当時、快復村の家屋は老朽化し、トイレや台所、浴室などがない場合が多く、水道や電気がない村もあった。医師や看護師が村に来ることもほとんどなく、大きな病気にかかれば座して死を待つのみだった。高齢で障害のある村人は政府の支給する生活保護に頼る他なく、その額は1人あたり毎月120-250元ほどだった。
中国で活動を始めた2000年初期は全国に快復村625ヶ所が存在し、そこに平均年齢60-70歳の快復者約2万人が暮らすと言われていた。現在は快復村約500ヶ所に約1万人が住むというが、詳しい統計は公表されていない。
3. 活動方法-ワークキャンプ
ワークキャンプとは、背景の異なるさまざまな人々が、社会的課題を持つ地域に一定期間住み込み(キャンプ)、その地域の人々と生活を共にしながら、手弁当で労働(ワーク)に携わる活動を指す。
中国でのワークキャンプでは、若者たち20人ほどが1-3週間快復村に住み込み、快復者と生活を共にしながら、インフラ整備を行う。この際、労働を仲立ちとして快復者とボランティアの間や、中国人学生と日本人学生の間に、個人と個人の信頼関係が生まれる。この関係を起点とし、下記のような変化が起こる。
キャンプ期間中は学生が快復村に住み込んで活動しているため、周辺地域の人々の間にその噂が広まり、ハンセン病への理解が広まっていく。そして、快復者への交通機関への乗車拒否や、市場での現金受取拒否、食堂への入店拒否、病院での受診拒否、侮辱的言葉を浴びせられるなどの差別がなくなっていく。
活動がメディアに取り上げられると、地元の慈善団体や企業が定期的に快復村に日用品や食料などの物資を支援し始め、快復村の経済的負担が緩和される。
このように地域にハンセン病支援の輪が広がっていくと、快復村を管轄する地元政府も医師や看護師の定期巡回、生活費や医療費の増額、医療保険や年金への加入、介護の導入、生活環境の整備などの取り組みを行い始める。
次第に、一部ではあるが、快復者自身も自らの活動を始める。学生と共に大学で講演会を行う快復者や、政府と交渉して介護導入予算を獲得する快復者、自らの半生を文章にして伝える快復者、独学で覚えた書画を村を訪れる社会人に販売し、その利益で貧しい快復村に電化製品を寄付する快復者がいる。
この過程において学生たちは村でのワークキャンプを繰り返し、快復者との関係が深まっていく。ワークキャンプ開催期間ではなくても、週末や休日に村を訪れ、日曜大工的に高齢で障害のある村人の手伝いをしたり、食事を共にしたり、世間話をしたりする。結婚披露宴を村で開き、生まれた赤ちゃんを連れて村に来る人も多い。一部の快復者は実家に帰りたいと打ち明け、学生が同行して数日間帰省した例もいくつかある。
4. 活動組織-自主的かつ持続的活動のための現地組織
中国での活動初期は日本人と韓国人のみがワークキャンプを行なっていたが、2003年8月のワークキャンプに中国の学生が初めて、手弁当で全日程参加した。以後、活動する快復村の数を徐々に増やし、2004年にJIAを設立した。
日本約2つ分の面積の地域にある快復村82ヶ所において、地元の学生が地元の社会資源で自主的に持続的な活動を行うため、JIAを事務局と「JIAワークキャンプ地区委員会」で構成される体制にした。
JIA地区委員会は華南地方の8つの都市にある大学24ヶ所からの学生ボランティアによって構成されている。学生たちは快復村を下見調査し、快復者や政府と相談してワークプロジェクトを決定し、活動参加者を集めて研修し、ワークキャンプを実施する。JIA事務局のフルタイムスタッフは各地区委員会の学生に対して、人材育成、情報共有、ネットワーク構築(地区委員会同士、支援者、協力団体など)の3つの側面から支援するのみで、ワークキャンプの主催権は地区委員会にある。
この組織の発展の方向性などの重要な意志決定はJIA理事会が行う。JIA理事は8つの地区から選出された地区代表8人であり、つまり活動の最前線にいる学生が組織の最高意志決定を行うことができる。ただし、学生には経験が不足しているので、それを補うため、学生時代にJIA理事を経験したOG/OB3人が理事会に加わっている。この理事会が事務局長(JIAの代表)を任命し、事務局長率いる事務局は意志決定の執行のみを担当し、意志決定権は持たない。2004年から2015年の事務局長は原田で、2016年から現在までは中国人の顔循芳が担当している。
この活動を資金的に支えるのは活動のOG/OBたち約1300人だ。学生時代に活動と組織のサービスを無償で受け、意義を理解した人たちは卒業後、毎月の定額寄付や仕事上で身につけた知識や技術を活かした小型のチャリティイベントを行い、地区委員会や事務局に寄付を行なっている。こうしてJIAは現在、外部の財団や企業からの助成金への依存度を下げ、コロナ禍にも耐えることのできる持続的で現地化した資金源を備えている。
5. 活動のアジア諸国への飛び火
中国での活動を経験した日本人の若者たちが他の国に活動を広げている。それぞれの国での活動は10年以上続いてきたものから、近年立ち上げられたばかりのものもあり、活動への志や経験を水平に共有することで、相互に支え合うネットワークが構築されつつある。
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インドネシア:高島雄太は2010年、インドネシアのハンセン病コロニーでの活動を始め、2019年にJALANという現地団体を立ち上げ、現在までに4ヶ所のコロニーにおいて、インドネシア大学の学生を中心に延べ700人の学生が活動に参加している(http://satujalanbersama.org/ja/)。
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ベトナム:高階まりこは2010年、ベトナムのハンセン病快復村で活動を立ち上げた(現在活動休止中)。
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インド:梶田恵理子と安田亜希は2011年、インドのハンセン病コロニーで活動を始め、NPO法人わぴねす(https://wappiness.org)を設立し、現在までにコロニー3ヶ所で活動、延べで日本人176人、インド人49人が参加。
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日本:
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2011年東日本大震災が起きた後、佐々木美穂、鈴木亮輔、加藤拓馬が気仙沼市唐桑町で瓦礫撤去のワークキャンプを始め、加藤はその後、唐桑に一般社団法人まるオフィス(http://maru-zemi.com/)を設立し、現在に至るまで気仙沼のまちづくりに携わっている。
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その後、鈴木亮輔は千葉県館山市にて子供キャンプを行ない、気仙沼で仮設住宅に篭りがちだった子どもたちに戸外で遊ぶ場を提供した。この活動は現在まで続いており、初期に参加した子供が高校生となり、キャンプの運営スタッフとなる状況も生まれている。
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その他、中国での活動参加者が、JIAの協力団体であるフレンズ国際ワークキャンプ関東委員会、東海委員会、関西委員会、九州委員会による日本国内(青森大間、大分耶馬溪、福岡福智)のワークキャンプに関わる状況が生まれている。